《つつみ》を抱《かか》えたおこのは、それでも何《なに》やら心《こころ》が乱《みだ》れたのであろう。上気《じょうき》した顔《かお》をふせたまま、敷居際《しきいぎわ》に頭《あたま》を下《さ》げた。
「こないに遅《おそ》う、無躾《ぶしつけ》に伺《うかが》いまして。……」
「どんな御用《ごよう》か、遠慮《えんりょ》なく、ずっとお通《とお》りなさるがいい」
「いいえもう、ここで結構《けっこう》でおます」
 行燈《あんどん》の灯《ひ》が長《なが》く影《かげ》をひいた、その鼠色《ねずみいろ》に包《つつ》まれたまま、石《いし》のように硬《かた》くなったおこのの髪《かみ》が二|筋《すじ》三|筋《すじ》、夜風《よかぜ》に怪《あや》しくふるえて、心《こころ》もち青《あお》みを帯《お》びた頬《ほほ》のあたりに、ほのかに汗《あせ》がにじんでいた。
「そうしてお上《かみ》さんは、こんな遅《おそ》く、何《な》んの用《よう》でおいでなすった」
「拝借《はいしゃく》の、おせん様《さま》の帯《おび》を、お返《かえ》し申《もう》しに。――」
「なに、おせんの帯《おび》を。――」
「はい」
「それはまた何《な》んでの」
 春信《はるのぶ》は、意外《いがい》なおこのの言葉《ことば》は、思《おも》わず眼《め》を瞠《みは》った。
「御大切《おたいせつ》なお品《しな》ゆえ、粗相《そそう》があってはならんよって、速《はよ》うお返《かえ》し申《もう》すが上分別《じょうふんべつ》と、思《おも》い立《た》って参《さん》じました」
「では太夫《たゆう》はこの帯《おび》を、芝居《しばい》にゃ使《つか》わないつもりかの」
「はい。折角《せっかく》ながら。……」
 おこのは、そのまま固《かた》く唇《くちびる》を噛《か》んだ。

    四

「ふふふふ、お上《かみ》さん」
 じっとおこのの顔《かお》を見詰《みつ》めていた春信《はるのぶ》は、苦笑《くしょう》に唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
「はい」
「お前《まえ》さんもう一|度《ど》、思《おもい》い直《なお》して見《み》なさる気《き》はないのかい」
「おもい直《なお》せといやはりますか」
「まずのう」
「なぜでおます」
「なぜかそいつは、そっちの胸《むね》に、訊《き》いて見《み》たらば判《わか》ンなさろう。――その帯《おび》は、おせんから頼《たの》まれて、この春信《はるのぶ》が描《か》いたものにゃ違《ちが》いないが、まだ向《むこ》うの手《て》へ渡《わた》さないうちに、太夫《たゆう》が来《き》て、貸《か》してくれとのたッての頼《たの》み、これがなくては、肝腎《かんじん》の芝居《しばい》が出来《でき》ないとまでいった挙句《あげく》、いや応《おう》なしに持《も》って行《い》かれてしまったものだ。おせんにゃもとより、内所《ないしょ》で貸《か》して渡《わた》した品物《しなもの》、今更《いまさら》急《きゅう》に返《かえ》す程《ほど》なら、あれまでにして、持《も》って行《い》きはしなかろう。お上《かみ》さん。お前《まえ》、つまらない料簡《りょうけん》は、出《だ》さないほうがいいぜ」
「そんならなんぞ、わたしがひとりの料簡《りょうけん》で。……」
「そうだ。これがおせんの帯《おび》でなかったら、まさかお前《まえ》さんは、この夜道《よみち》を、わざわざここまで返《かえ》しにゃ来《き》なさるまい。太夫《たゆう》が締《し》めて踊《おど》ったとて、おせんの色香《いろか》が移《うつ》るという訳《わけ》じゃァなし、芸人《げいにん》のつれあいが、そんな狭《せま》い考《かんが》えじゃ、所詮《しょせん》[#「所詮」は底本では「所謂」]うだつは揚《あ》がらないというものだ。余計《よけい》なお接介《せっかい》のようだが、今頃《いまごろ》太夫《たゆう》は、帯《おび》の行方《ゆくえ》を探《さが》しているだろう。お前《まえ》さんの来《き》たこたァ、どこまでも内所《ないしょ》にしておこうから、このままもう一|度《ど》、持《も》って帰《かえ》ってやるがいい」
「ほほほ、お師匠《ししょう》さん」
 おこのは冷《つめ》たく額《ひたい》で笑《わら》った。
「え」
「折角《せっかく》の御親切《ごしんせつ》でおますが、いったんお返《かえ》ししょうと、持《も》って参《さん》じましたこの帯《おび》、また拝借《はいしゃく》させて頂《いただ》くとしましても、今夜《こんや》はお返《かえ》し申《もう》します」
「ではどうしても、置《お》いて行《い》こうといいなさるんだの」
「はい」
「そうかい。それ程《ほど》までにいうんなら、仕方《しかた》がない、預《あず》かろう。その換《かわ》り、太夫《たゆう》が借《か》りに来《き》たにしても、もう二|度《ど》と再《ふたた》び貸《か》すことじゃないから、それだけは確《しか
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