》と念《ねん》を押《お》しとくぜ」
「よう判《わか》りました。この上《うえ》の御迷惑《ごめいわく》はおかけしまへんよって。……」
「はッはッはッ」と、今《いま》まで座敷《ざしき》の隅《すみ》に黙《だま》りこくっていた松《まつ》五|郎《ろう》が、急《きゅう》に煙管《きせる》をつかんで大笑《おおわら》いに笑《わら》った。
「どうした松《まつ》つぁん」
「どうもこうもありませんが、あんまり話《はなし》が馬鹿気《ばかげ》てるんで、とうとう辛抱《しんぼう》が出来《でき》なくなりやしたのさ。――師匠《ししょう》、ひとつあっしに、ちっとばかりしゃべらしておくんなせえ」
「何《な》んとの」
「身《み》に降《ふ》りかかる話《はなし》じゃねえ。どうせ人様《ひとさま》のことだと思《おも》って、黙《だま》って聴《き》いて居《お》りやしたが。――もし堺屋《さかいや》さんのお上《かみ》さん、つまらねえ焼《や》きもちは、焼《や》かねえ方《ほう》がようがすぜ」
「なにいいなはる」
「なにも蟹《かに》もあったもんじゃねえ。蟹《かに》なら横《よこ》にはうのが近道《ちかみち》だろうに、人間《にんげん》はそうはいかねえ。広《ひろ》いようでも世間《せけん》は狭《せめ》えものだ。どうか真《ま》ッ直《すぐ》向《む》いて歩《ある》いておくんなせえ」
「あんたはん、どなたや」
「あっしゃァ松《まつ》五|郎《ろう》という、けちな職人《しょくにん》でげすがね。お前《まえ》さんの仕方《しかた》が、あんまり情《なさけ》な過《す》ぎるから、口《くち》をはさましてもらったのさ。知《し》らなきゃいって聞《き》かせるが、笠森《かさもり》のおせん坊《ぼう》は、男嫌《おとこぎら》いで通《とお》っているんだ。今《いま》さらお前《まえ》さんとこの太夫《たゆう》が、金鋲《きんびょう》を打《う》った駕籠《かご》で迎《むか》えに来《き》ようが、毛筋《けすじ》一|本《ぽん》動《うご》かすような女《おんな》じゃねえから安心《あんしん》しておいでなせえ。痴話喧嘩《ちわげんか》のとばっちりがここまでくるんじゃ、師匠《ししょう》も飛《と》んだ迷惑《めいわく》だぜ」
松《まつ》五|郎《ろう》はこういって、ぐっとおこのを睨《にら》みつけた。
五
暗《やみ》の中《なか》を、鼠《ねずみ》のようになって、まっしぐらに駆《か》けて来《き》た堺屋《さかいや》の男衆《おとこしゅう》新《しん》七は、これもおこのと同《おな》じように、柳原《やなぎはら》の土手《どて》を八|辻《つじ》ヶ|原《はら》へと急《いそ》いだが、夢中《むちゅう》になって走《はし》り続《つづ》けてきたせいであろう。右《みぎ》へ行《い》く白壁町《しろかべちょう》への道《みち》を左《ひだり》へ折《お》れたために、狐《きつね》につままれでもしたように、方角《ほうがく》さえも判《わか》らなくなった折《おり》も折《おり》、彼方《かなた》の本多豊前邸《ほんだぶぜんてい》の練塀《ねりべい》の影《かげ》から、ひた走《はし》りに走《はし》ってくる女《おんな》の気配《けはい》。まさかと思《おも》って眼《め》をすえた刹那《せつな》瞼《まぶた》ににじんだ髪《かみ》かたちは、正《まさ》しくおこのの姿《すがた》だった。
新《しん》七は、はッとして飛《と》び上《あが》った。
「おお、お上《かみ》さん」
「あッ。お前《まえ》はどこへ」
「どこへどころじゃござりません。お上《かみ》さんこそ今時分《いまじぶん》、どちらへおいでなさいました」
「わたしは、お前《まえ》も知《し》っての通《とお》り、あの絵師《えし》の春信《はるのぶ》さんのお宅《たく》へ、いって来《き》ました」
「そんならやっぱり、春信師匠《はるのぶししょう》のお宅《たく》へ」
「お前《まえ》がまた、そのようなことを訊《き》いて、何《な》んにしやはる」
「手前《てまえ》は太夫《たゆう》からのおいいつけで、お上《かみ》さんをお迎《むか》えに上《あが》ったのでござります」
「わたしを迎《むか》えに。――」
「へえ。――そうしてあの帯《おび》をどうなされました」
「何《なに》、帯《おび》とえ」
「はい。おせんさんの帯《おび》は、お上《かみ》さんが、お持《も》ちなされたのでござりましょう」
「そのような物《もの》を、わたしが知《し》ろかいな」
「いいえ。知《し》らぬことはございますまい。先程《さきほど》お出《で》かけなさる時《とき》、帯《おび》を何《な》んとやら仰《おっ》しゃったのを、新《しん》七は、たしかにこの耳《みみ》で聞《き》きました」
「知《し》らぬ知《し》らぬ。わたしが春信《はるのぶ》さんをお訊《たず》ねしたのは帯《おび》や衣装《いしょう》のことではない。今度《こんど》鶴仙堂《かくせんどう》から板《いた》おろしをしやはる
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