り、足許《あしもと》に狂《くる》いはござんせんから御安心《ごあんしん》を」
「酒手《さかて》はなんぼでもはずみますさかい、そのつもりで頼《たの》ンます」
「相棒《あいぼう》」
「おお」
「聞《き》いたか」
「聞《き》いたぞ」
「流石《さすが》にいま売《うり》だしの、堺屋《さかいや》さんのお上《かみ》さんだの。江戸《えど》の女達《おんなたち》に聞《き》かしてやりてえ嬉《うれ》しい台詞《せりふ》だ」
「その通《とお》り。――お上《かみ》さん。太夫《たゆう》の人気《にんき》は大《たい》したもんでげすぜ。これからァ、何《な》んにも恐《こわ》いこたァねえ、日《ひ》の出《で》の勢《いきお》いでげさァ」
「そうともそうとも、酒手《さかて》と聞《き》きいていうんじゃねえが、太夫《たゆう》はでえいち、品《ひん》があるッて評判《ひょうばん》だて。江戸役者《えどやくしゃ》にゃ、情《なさけ》ねえことに、品《ひん》がねえからのう」
「おや駕籠屋《かごや》さん。左様《さよう》にいうたら、江戸《えど》のお方《かた》に憎《にく》まれまッせ」
「飛《と》んでもねえ。太夫《たゆう》を誉《ほ》めて、憎《にく》むような奴《やつ》ァ、みんなけだもの[#「けだもの」に傍点]でげさァね」
「そうとも」
 柳原《やなぎはら》の土手《どて》を左《ひだり》に折《お》れて、駕籠《かご》はやがて三|河町《かわちょう》の、大銀杏《おおいちょう》の下《した》へと差《さ》しかかっていた。
 夜《よ》は正《まさ》に四つだった。

    三

 白壁町《しろかべちょう》の春信《はるのぶ》の住居《すまい》では、今《いま》しも春信《はるのぶ》が彫師《ほりし》の松《まつ》五|郎《ろう》を相手《あいて》に、今度《こんど》鶴仙堂《かくせんどう》から板《いた》おろしをする「鷺娘《さぎむすめ》」の下絵《したえ》を前《まえ》にして、頻《しき》りに色合《いろあわ》せの相談中《そうだんちゅう》であったが、そこへひょっこり顔《かお》を出《だ》した弟子《でし》の藤吉《とうきち》は、団栗眼《どんぐりまなこ》を一層《いっそう》まるくしながら、二三|度《ど》続《つづ》けさまに顎《あご》をしゃくった。
「お師匠《ししょう》さん、お客《きゃく》でござんす」
「どなたかおいでなすった」
「堺屋《さかいや》さんの、お上《かみ》さんがお見《み》えなんで」
「なに、堺屋《さかいや》のお上《かみ》さんだと。そりゃァおかしい。何《なに》かの間違《まちが》いじゃねえのかの」
「間違《まちが》いどころじゃござんせん。真正証銘《しんしょうしょうめい》のお上《かみ》さんでござんすよ」
「お上《かみ》さんが、何《な》んの用《よう》で、こんなにおそく来《き》なすったんだ」
 ついに一|度《ど》も来《き》たことのない、中村松江《なかむらしょうこう》の女房《にょうぼう》が、訪《たず》ねて来《き》たと聞《き》いただけでは、春信《はるのぶ》は、直《す》ぐさまその気《き》になれなかったのであろう。絵《え》の具《ぐ》から眼《め》を離《はな》すと、藤吉《とうきち》の顔《かお》をあらためて見直《みなお》した。
「何《なん》の御用《ごよう》か存《ぞん》じませんが、一|刻《こく》も早《はや》くお師匠《ししょう》さんにお目《め》にかかって、お願《ねが》いしたいことがあると、それはそれは、急《いそ》いでおりますんで。……」
「はァてな。――何《な》んにしても、来《き》たとあれば、ともかくこっちへ通《とお》すがいい」
 藤吉《とうきち》が、あたふたと行《い》ってしまうと、春信《はるのぶ》は仕方《しかた》なしに松《まつ》五|郎《ろう》の前《まえ》に置《お》いた下絵《したえ》を、机《つくえ》の上《うえ》へ片着《かたづ》けて、かるく舌《した》うちをした。
「飛《と》んだところへ邪間《じゃま》が這入《はい》って、気《き》の毒《どく》だの」
「どういたしやして、どうせあっしゃァ、外《ほか》に用《よう》はありゃァしねえんで。……なんならあっちへ行《い》って待《ま》っとりやしょうか」
「いやいや、それにゃァ及《およ》ぶまい。話《はなし》は直《す》ぐに済《す》もうから、構《かま》わずここにいるがいい」
「そんならこっちの隅《すみ》の方《ほう》へ、まいまいつぶろ[#「まいまいつぶろ」に傍点]のようンなって、一|服《ぷく》やっておりやしょう」
 ニヤリと笑《わら》った松《まつ》五|郎《ろう》が、障子《しょうじ》の隅《すみ》へ、まるくなった時《とき》だった。藤吉《とうきち》に案内《あんない》されたおこのの姿《すがた》が、影絵《かげえ》のように縁先《えんさき》へ現《あらわ》れた。
「師匠《ししょう》、お連《つ》れ申《もう》しました」
「御免やすえ」
「さァ、ずっとこっちへ」
 欝金《うこん》の包
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