の、由斎《ゆうさい》の仕事場《しごとば》を訪《おとず》れたおせんの胸《むね》には、しとど降《ふ》る雨《あめ》よりしげき思《おも》いがあった。
 年《とし》からいえば五つの違《ちが》いはあったものの、おなじ王子《おうじ》で生《うま》れた幼《おさな》なじみの菊之丞《きくのじょう》とは、けし[#「けし」に傍点]奴《やっこ》の時分《じぶん》から、人《ひと》もうらやむ仲好《なかよ》しにて、ままごと遊《あそ》びの夫婦《めおと》にも、吉《きち》ちゃんはあたいの旦那《だんな》、おせんちゃんはおいらのお上《かみ》さんだよと、度重《たびかさ》なる文句《もんく》はいつか遊《あそ》び仲間《なかま》に知《し》れ渡《わた》って、自分《じぶん》の口《くち》からいわずとも、二人《ふたり》は真《す》ぐさま夫婦《ふうふ》にならべられるのが却《かえっ》てきまり悪《わる》く、時《とき》にはわざと背中合《せなかあわ》せにすわる場合《ばあい》もままあったが、さて、吉次《きちじ》はやがて舞台《ぶたい》に出《で》て、子役《こやく》としての評判《ひょうばん》が次第《しだい》に高《たか》くなった時分《じぶん》から、王子《おうじ》を去《さ》った互《たがい》の親《おや》が、芳町《よしちょう》と蔵前《くらまえ》に別《わか》れ別《わか》れに住《す》むようになったばかりに、いつか会《あ》って語《かた》る日《ひ》もなく二|年《ねん》は三|年《ねん》三|年《ねん》は五|年《ねん》と、速《はや》くも月日《つきひ》は流《なが》れ流《なが》れて、辻番付《つじばんづけ》の組合《くみあわ》せに、振袖姿《ふりそですがた》の生々《いきいき》しさは見《み》るにしても、吉《きち》ちゃんおせんちゃんと、呼《よ》び交《か》わす機《おり》はまったくないままに、過《す》ぎてしまったのであった。
 女形《おやま》といえば、中村《なかむら》富《とみ》十|郎《ろう》をはじめ、芳沢《よしざわ》あやめにしろ、中村《なかむら》喜代《きよ》三|郎《ろう》にしろ、または中村粂太郎《なかむらくめたろう》にしろ、中村松江《なかむらしょうこう》にしろ、十|人《にん》いれば十|人《にん》がいずれもそろって上方下《かみがたくだ》りの人達《ひとたち》である中《なか》に、たった一人《ひとり》、江戸《えど》で生《うま》れて江戸《えど》で育《そだ》った吉次《きちじ》が、他《ほか》の女形《おやま》を尻目《しりめ》にかけて、めきめきと売出《うりだ》した調子《ちょうし》もよく、やがて二|代目《だいめ》菊之丞《きくのじょう》を継《つ》いでからは上上吉《じょうじょうきち》の評判記《ひょうばんき》は、弥《いや》が上《うえ》にも人気《にんき》を煽《あお》ったのであろう。「王子路考《おうじろこう》」の名《な》は、押《お》しも押《お》されもしない、当代《とうだい》随《ずい》一の若女形《わかおやま》と極《き》まって、出《だ》し物《もの》は何《な》んであろうと菊之丞《きくのじょう》の芝居《しばい》とさえいえば、見《み》ざれば恥《はじ》の如《ごと》き有様《ありさま》となってしまった。
 したがって、人気役者《にんきやくしゃ》に付《つ》きまとう様々《さまざま》な噂《うわさ》は、それからそれえと、日毎《ひごと》におせんの耳《みみ》へ伝《つた》えられた。――どこそこのお大名《だいみょう》のお妾《めかけ》が、小袖《こそで》を贈《おく》ったとか。何々屋《なになにや》の後家《ごけ》さんが、帯《おび》を縫《ぬ》ってやったとか。酒問屋《さけとんや》の娘《むすめ》が、舞台《ぶたい》で※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さ》した簪《かんざし》が欲《ほ》しさに、親《おや》の金《かね》を十|両《りょう》持《も》ち出《だ》したとか。数《かぞ》えれば百にも余《あま》る女《おんな》出入《でいり》の出来事《できごと》は、おせんの茶見世《ちゃみせ》へ休《やす》む人達《ひとたち》の間《あいだ》にさえ、聞《き》くともなく、語《かた》るともなく伝《つた》えられて、嘘《うそ》も真《まこと》も取交《とりま》ぜた出来事《できごと》が、きのうよりはきょう、きょうよりは明日《あす》と、益々《ますます》菊之丞《きくのじょう》の人気《にんき》を高《たか》くするばかり。
 が、おせんの胸《むね》の底《そこ》にひそんでいる、思慕《しぼ》の念《ねん》は、それらの噂《うわさ》には一|切《さい》おかまいなしに日毎《ひごと》につのってゆくばかりだった。それもそのはずであろう。おせんが慕《した》う菊之丞《きくのじょう》は、江戸中《えどじゅう》の人気《にんき》を背負《せお》って立《た》った、役者《やくしゃ》の菊之丞《きくのじょう》ではなくて、かつての幼《おさな》なじみ、王子《おうじ》の吉《きち》ちゃんその
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