人《ひと》だったのだから。――
 何某《なにがし》の御子息《ごしそく》、何屋《なにや》の若旦那《わかだんな》と、水茶屋《みずちゃや》の娘《むすめ》には、勿体《もったい》ないくらいの縁談《えんだん》も、これまでに五つや十ではなく、中《なか》には用人《ようにん》を使者《ししゃ》に立《た》てての、れッき[#「れッき」に傍点]としたお旗本《はたもと》からの申込《もうしこ》みも二三は数《かぞ》えられたが、その度毎《たびごと》に、おせんの首《くび》は横《よこ》に振《ふ》られて、あったら玉《たま》の輿《こし》に乗《の》りそこねるかと人々《ひとびと》を惜《お》しがらせて来《き》た腑甲斐《ふがい》なさ、しかも胸《むね》に秘《ひ》めた菊之丞《きくのじょう》への切《せつ》なる思《おも》いを、知《し》る人《ひと》とては一人《ひとり》もなかった。
 名人《めいじん》由斎《ゆうさい》に、心《こころ》の内《うち》を打《う》ちあけて、三|年前《ねんまえ》に中村座《なかむらざ》を見《み》た、八百|屋《や》お七の舞台姿《ぶたいすがた》をそのままの、生人形《いきにんぎょう》に頼《たの》み込《こ》んだ半年前《はんとしまえ》から、おせんはきょうか明日《あす》かと、出来《でき》上《あが》る日《ひ》を、どんなに待《ま》ったか知《し》れなかったが、心魂《しんこん》を傾《かたむ》けつくす仕事《しごと》だから、たとえなにがあっても、その日《ひ》までは見《み》に来《き》ちゃァならねえ、行《ゆ》きますまいと誓《ちか》った言葉《ことば》の手前《てまえ》もあり、辛抱《しんぼう》に辛抱《しんぼう》を重《かさ》ねて来《き》たとどのつまりが、そこは女《おんな》の乱《みだ》れる思《おも》いの堪《た》え難《がた》く、きのうときょうの二|度《ど》も続《つづ》けて、この仕事場《しごとば》を、ひそかに訪《おとず》れる気《き》になったのであろう。頭巾《ずきん》の中《なか》に瞠《みは》った眼《め》には、涙《なみだ》の露《つゆ》が宿《やど》っていた。
「親方《おやかた》。――もし親方《おやかた》」
 もう一|度《ど》おせんは奥《おく》へ向《むか》って、由斎《ゆうさい》を呼《よ》んで見《み》た。が、聞《きこ》えるものは、わずかに樋《とい》を伝《つた》わって落《お》ちる、雨垂《あまだ》れの音《おと》ばかりであった。
 軒端《のきば》の柳《やなぎ》が、思《おも》い出《だ》したように、かるく雨戸《あまど》を撫《な》でて行《い》った。

    四

「若旦那《わかだんな》。――もし、若旦那《わかだんな》」
「うるさいね。ちと黙《だま》ってお歩《ある》きよ」
「そう仰《おっ》しゃいますが、これを黙《だま》って居《お》りましたら、あとで若旦那《わかだんな》に、どんなお小言《こごと》を頂戴《ちょうだい》するか知《し》れませんや」
「何《な》んだッて」
「あすこを御覧《ごらん》なさいまし。ありゃァたしかに、笠森《かさもり》のおせんさんでござんしょう」
「おせんがいるッて。――ど、どこに」
 薬研堀《やげんぼり》の不動様《ふどうさま》へ、心願《しんがん》があっての帰《かえ》りがけ、黒《くろ》八|丈《じょう》の襟《えり》のかかったお納戸茶《なんどちゃ》の半合羽《はんがっぱ》に奴蛇《やっこじゃ》の目《め》を宗《そう》十|郎《ろう》好《ごの》みに差《さ》して、中小僧《ちゅうこぞう》の市松《いちまつ》を供《とも》につれた、紙問屋《かみどんや》橘屋《たちばなや》の若旦那《わかだんな》徳太郎《とくたろう》の眼《め》は、上《うわ》ずッたように雨《あめ》の中《なか》を見詰《みつ》めた。
「あすこでござんすよ。あの筆屋《ふでや》の前《まえ》から両替《りょうがえ》の看板《かんばん》の下《した》を通《とお》ってゆく、あの頭巾《ずきん》をかぶった後姿《うしろすがた》。――」
「うむ。ちょいとお前《まえ》、急《いそ》いで行《い》って、見届《みとど》けといで」
「かしこまりました」
 頭《あたま》のてっぺんまで、汚泥《はね》の揚《あ》がるのもお構《かま》いなく、横《よこ》ッ飛《と》びに飛《と》び出《だ》した市松《いちまつ》には、雨《あめ》なんぞ、芝居《しばい》で使《つか》う紙《かみ》の雪《ゆき》ほどにも感《かん》じられなかったのであろう。七八|間先《けんさき》を小《こ》きざみに往《い》く渋蛇《しぶじゃ》の目《め》の横《よこ》を、一|文字《もんじ》に駆脱《かけぬ》けたのも束《つか》の間《ま》、やがて踵《くびす》を返《かえ》すと、鬼《おに》の首《くび》でも取《と》ったように、喜《よろこ》び勇《いさ》んで駆《か》け戻《もど》った。
「どうした」
「この二つの眼《め》で睨《にら》んだ通《とお》り、おせんさんに違《ちが》いござんせん」
「これこれ、何《な》んでそ
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