なんぞしやはりましたか」
「急病《きゅうびょう》での」
「えッ」
「血《ち》の道《みち》でもあろうが、ここへ来《く》るなり頭痛《ずつう》がするといって、ふさぎ込《こ》んでしまったまま、いまだに顔《かお》も挙《あ》げない始末《しまつ》、この分《ぶん》じゃ、半時《はんとき》待《ま》ってもらっても、今朝《けさ》は、話《はなし》は出来《でき》まいと思《おも》っての、お気《き》の毒《どく》だが、またあらためて、会《あ》ってやっておもらい申《もう》すより、仕方《しかた》がないじゃなかろうかと、実《じつ》は心配《しんぱい》している訳《わけ》だが。……」
「それはまア」
「のう太夫《たゆう》。お前《まえ》さん、詫《わび》はあたしから幾重《いくえ》にもしようから、きょうはこのまま、帰《かえ》っておくんなさるまいか」
「それァもう、帰《かえ》ることは、いつでも帰《かえ》りますけれど、おせんさんが急病《きゅうびょう》とは、気《き》がかりでおますさかい。……」
「いや、気《き》に病《や》むほどのことでもなかろうが、何《なん》せ若《わか》い女《おんな》の急病《きゅうびょう》での。ちっとばかり、朝《あさ》から世間《せけん》が暗《くら》くなったような気《き》がするのさ」
「へえ」
 春信《はるのぶ》の眼《め》は、松江《しょうこう》を反《そ》れて、地《ち》に曳《ひ》く萩《はぎ》の葉《は》に移《うつ》っていた。

  雨《あめ》


    一

「おい坊主《ぼうず》、火鉢《ひばち》の火《ひ》が消《き》えちゃってるぜ。ぼんやりしてえちゃ困《こま》るじゃねえか」
 浜町《はまちょう》の細川邸《ほそかわてい》の裏門前《うらもんまえ》を、右《みぎ》へ折《お》れて一|町《ちょう》あまり、角《かど》に紺屋《こうや》の干《ほ》し場《ば》を見《み》て、伊勢喜《いせき》と書《か》いた質屋《しちや》の横《よこ》について曲《まが》がった三|軒目《げんめ》、おもてに一|本柳《ぽんやなぎ》が長《なが》い枝《えだ》を垂《た》れたのが目印《めじるし》の、人形師《にんぎょうし》亀岡由斎《かめおかゆうさい》のささやかな住居《すまい》。
 まだ四十を越《こ》していくつにもならないというのが、一|見《けん》五十四五に見《み》える。髷《まげ》も白髪《しらが》もおかまいなし、床屋《とこや》の鴨居《かもい》は、もう二|月《つき》も潜《くぐ》
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