、おせんの襟脚《えりあし》から動《うご》かなかった。が、やがて静《しず》かにうなずいたその顔《かお》には、晴《は》れやかな色《いろ》が漂《ただよ》っていた。
「おせん」
「あい」
「よくほれた」
「えッ」
「当代《とうだい》一の若女形《わかおやま》、瀬川菊之丞《せがわきくのじょう》なら、江戸《えど》一|番《ばん》のお前《まえ》の相手《あいて》にゃ、少《すこ》しの不足《ふそく》もあるまいからの。――判《わか》った。相手《あいて》がやっぱり役者《やくしゃ》とあれば、堺屋《さかいや》に会《あ》うのは気《き》が差《さ》そう。こりゃァ何《な》んとでもいって断《ことわ》るから、安心《あんしん》するがいい」
八
勢《きお》い込《こ》んで駕籠《かご》で乗《の》り着《つ》けた中村松江《なかむらしょうこう》は、きのうと同《おな》じように、藤吉《とうきち》に案内《あんない》されたが、直《す》ぐ様《さま》通《とお》してもらえるはずの画室《がしつ》へは、何《なに》やら訳《わけ》があって入《はい》ることが出来《でき》ぬところから、ぽつねんと、池《いけ》の近《ちか》くにたたずんだまま、人影《ひとかげ》に寄《よ》って来《く》る鯉《こい》の動《うご》きをじっと見詰《みつ》めていた。
師《し》の歌右衛門《うたえもん》を慕《した》って江戸《えど》へ下《くだ》ってから、まだ足《あし》かけ三|年《ねん》を経《へ》たばかりの松江《しょうこう》が、贔屓筋《ひいきすじ》といっても、江戸役者《えどやくしゃ》ほどの数《かず》がある訳《わけ》もなく、まして当地《とうち》には、当代随《とうだいずい》一の若女形《わかおやま》といわれる、二|代目《だいめ》瀬川菊之丞《せがわきくのじょう》が全盛《ぜんせい》を極《きわ》めていることとて、その影《かげ》は決《けっ》して濃《こ》いものではなかった。が、年《とし》は若《わか》いし、芸《げい》は達者《たっしゃ》であるところから、作者《さくしゃ》の中村重助《なかむらじゅうすけ》が頻《しき》りに肩《かた》を入《い》れて、何《なに》か目先《めさき》の変《かわ》った狂言《きょうげん》を、出《だ》させてやりたいとの心《こころ》であろう。近頃《ちかごろ》春信《はるのぶ》の画《え》で一|層《そう》の評判《ひょうばん》を取《と》った笠森《かさもり》おせんを仕組《しく》んで、一|番《ばん
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