いえ、何《なに》も訳《わけ》はござんせぬ」
「隠《かく》すにゃ当《あた》らないから、有様《ありよう》にいって見《み》な、事《こと》と次第《しだい》に因《よ》ったら、堺屋《さかいや》は、このままお前《まえ》には会《あわ》せずに、帰《かえ》ってもらうことにする」
「そんなら、あたしの願《ねが》いを聞《き》いておくんなさいますか」
「聞《き》きもする。かなえもする。だが、その訳《わけ》は聞《き》かしてもらうぜ」
「さァその訳《わけ》は。――」
「まだ隠《かく》しだてをするつもりか。あくまで聞《き》かせたくないというなら、聞《き》かずに済《す》ませもしようけれど、そのかわりおいらはもうこの先《さき》、金輪際《こんりんざい》、お前《まえ》の絵《え》は描《か》かないからそのつもりでいるがいい」
「まァお師匠《ししょう》さん」
「なァにいいやな。笠森《かさもり》のおせんは、江戸《えど》一|番《ばん》の縹緻佳《きりょうよ》しだ。おいらが拙《まず》い絵《え》なんぞに描《か》かないでも、客《きゃく》は御府内《ごふない》の隅々《すみずみ》から、蟻《あり》のように寄《よ》ってくるわな。――いいたくなけりゃ、聞《き》かずにいようよ」
 いたずらに、もてあそんでいた三|味線《みせん》の、いとがぽつんと切《き》れたように、おせんは身内《みうち》に積《つも》る寂《さび》しさを覚《おぼ》えて、思《おも》わず瞼《まぶた》が熱《あつ》くなった。
「お師匠《ししょう》さん、堪忍《かんにん》しておくんなさい。あたしゃ、お母《かあ》さんにもいうまいと、固《かた》く心《こころ》にきめていたのでござんすが、もう何事《なにごと》も申《もう》しましょう。どっと笑《わら》っておくんなさいまし」
「おお、ではやっぱり何《なに》かの訳《わけ》があって。……」
「あい、あたしゃあの、浜村屋《はまむらや》の太夫《たゆう》さんが、死《し》ぬほど好《す》きなんでござんす」
「えッ。菊之丞《きくのじょう》に。――」
「あい。おはずかしゅうござんすが。……」
 消えも入《い》りたいおせんの風情《ふぜい》は、庭《にわ》に咲《さ》く秋海棠《しゅうかいどう》が、なまめき落《お》ちる姿《すがた》をそのまま悩《なや》ましさに、面《おもて》を袂《たもと》におおい隠《かく》した。
 じッと、釘《くぎ》づけにされたように、春信《はるのぶ》の眼《め》は
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