ょうきち》の女形《おやま》、会《あ》ってるだけでも、気《き》が晴《は》れ晴《ば》れとするようだぜ」
 ふと、とんぼの影《かげ》が障子《しょうじ》から離《はな》れた。と同時《どうじ》に藤吉《とうきち》の声《こえ》が、遠慮勝《えんりょが》ちに縁先《えんさき》から聞《きこ》えた。
「師匠《ししょう》、太夫《たゆう》がおいでになりました」
「おおそうか。直《す》ぐにこっちへお通《とお》ししな」
 じっと畳《たたみ》の上《うえ》を見詰《みつ》めているおせんは、たじろぐように周囲《しゅうい》を見廻《みまわ》した。
「お師匠《ししょう》さん、後生《ごしょう》でござんす。あたしをこのまま、帰《かえ》しておくんなさいまし」
「なんだって」
 春信《はるのぶ》は大《おお》きく眼《め》を見《み》ひらいた。

    七

 たとえば青苔《あおこけ》の上《うえ》に、二つ三つこぼれた水引草《みずひきそう》の花《はな》にも似《に》て、畳《たたみ》の上《うえ》に裾《すそ》を乱《みだ》して立《た》ちかけたおせんの、浮《う》き彫《ぼり》のような爪先《つまさき》は、もはや固《かた》く畳《たたみ》を踏《ふ》んではいなかった。
「ははは、おせん。みっともない、どうしたというんだ」
 春信《はるのぶ》の、いささか当惑《とうわく》した視線《しせん》は、そのまま障子《しょうじ》の方《ほう》へおせんを追《お》って行《い》ったが、やがて追《お》い詰《つめ》られたおせんの姿《すがた》が、障子《しょうじ》の際《きわ》にうずくまるのを見《み》ると、更《さら》に解《げ》せない思《おも》いが胸《むね》の底《そこ》に拡《ひろ》がってあわてて障子《しょうじ》の外《そと》にいる藤吉《とうきち》に声《こえ》をかけた。
「藤吉《とうきち》、堺屋《さかいや》の太夫《たゆう》に、もうちっとの間《あいだ》、待《ま》っておもらい申《もう》してくれ」
「へえ」
 おおかた、もはや縁先近《えんさきちか》くまで来《き》ていたのであろう。藤吉《とうきち》が直《す》ぐさま松江《しょうこう》に春信《はるのぶ》の意《い》を伝《つた》えて、池《いけ》の方《ほう》へ引《ひ》き返《かえ》してゆく気配《けはい》が、障子《しょうじ》に映《うつ》った二つの影《かげ》にそれと知《し》れた。
「おせん」
「あい」
「お前《まえ》、何《なに》か訳《わけ》があってだの」
「い
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