とんぼが障子《しょうじ》へくっきり影《かげ》を映《うつ》した画室《がしつ》は、金《きん》の砂子《すなこ》を散《ち》らしたように明《あか》るかった。
 広々《ひろびろ》と庭《にわ》を取《と》ってはあるが、僅《わず》かに三|間《ま》を数《かぞ》えるばかりの、茶室《ちゃしつ》がかった風流《ふうりゆう》の住居《すまい》は、ただ如何《いか》にも春信《はるのぶ》らしい好《この》みにまかせて、手《て》いれが行《ゆ》き届《とど》いているというだけのこと、諸大名《しょだいみょう》の御用絵師《ごようえし》などにくらべたら、まことに粗末《そまつ》なものであった。
 その画室《がしつ》の中《なか》ほどに、煙草盆《たばこぼん》をはさんで、春信《はるのぶ》とおせんとが対座《たいざ》していた。おせんの初《うぶ》な心《こころ》は、春信《はるのぶ》の言葉《ことば》にためらいを見《み》せているのであろう。うつ向《む》いた眼許《めもと》には、ほのかな紅《べに》を差《さ》して、鬢《びん》の毛《け》が二|筋《すじ》三|筋《すじ》、夢見《ゆめみ》るように頬《ほほ》に乱《みだ》れかかっていた。
「どうだの、これは別《べつ》に、おいらが堺屋《さかいや》から頼《たの》まれた訳《わけ》ではないが、何《な》んといっても中村松江《なかむらしょうこう》なら、当時《とうじ》押《お》しも押《お》されもしない、立派《りっぱ》な太夫《たゆう》。その堺屋《さかいや》が秋《あき》の木挽町《こびきちょう》で、お前《まえ》のことを重助《じゅうすけ》さんに書《か》きおろさせて、舞台《いた》に上《の》せようというのだから、まず願《ねが》ってもないもっけ[#「もっけ」に傍点]の幸《さいわ》い。いやの応《おう》のということはなかろうじゃないか」
「はい、そりゃァもう、あたしに取《と》っては勿体《もったい》ないくらいの御贔屓《ごひいき》、いや応《おう》いったら、眼《め》がつぶれるかも知《し》れませぬが。……」
「それなら何《な》んでの」
「お師匠《ししょう》さん、堪忍《かんにん》しておくんなさい。あたしゃ知《し》らない役者衆《やくしゃしゅう》と、差《さ》しで会《あ》うのはいやでござんす」
「はッはッは、何《なに》かと思《おも》ったら、いつもの馬鹿気《ばかげ》たはにかみからか。ここへ堺屋《さかいや》を招《よ》んだのは、何《なに》もお前《まえ》と差《さ
前へ 次へ
全132ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング