し》れぬの。堺屋《さかいや》でもどっちでも、早《はや》く来《く》ればいいのに。――」
 濡《ぬ》れた手拭《てぬぐい》を、もう一|度《ど》丁寧《ていねい》に絞《しぼ》った春信《はるのぶ》は、口《くち》のうちでこう呟《つぶや》きながら、おもむろに縁先《えんさき》の方《ほう》へ歩《あゆ》み寄《よ》った。すると、その額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ふ》きながら駆《か》け込《こ》んで来《き》たのは、摺師《すりし》の八五|郎《ろう》であった。
「行《い》ってめえりやした」
「御苦労《ごくろう》、御苦労《ごくろう》。おせんはいたかの」
「へえ。居《お》りやした。でげすが師匠《ししょう》、世《よ》の中《なか》にゃ馬鹿《ばか》な野郎《やろう》が多《おお》いのに驚《おどろ》きやしたよ。あっしが向《むこ》うへ着《つ》いたのは、まだ六つをちっと回《まわ》ったばかりでげすのに、もうお前《まえ》さん、かぎ屋《や》の前《まえ》にゃ、人《ひと》が束《たば》ンなってるじゃござんせんか。それも、女《おんな》一人《ひとり》いるんじゃねえ。みんな、おいらこそ江戸《えど》一|番《ばん》の色男《いろおとこ》だと、いわぬばかりの顔《かお》をして、反《そ》りッかえってる野郎《やろう》ぞっきでげさァね。――おせんちゃんにゃ、千|人《にん》の男《おとこ》が首《くび》ッたけンなっても、及《およ》ばぬ鯉《こい》の滝《たき》のぼりだとは、知らねえんだから浅間《あさま》しいや」
「八つぁん。おせんの返事《へんじ》はどうだったんだ。直《す》ぐに来《く》るとか、来《こ》ないとか」
「めえりやすとも。もうおッつけ、そこいらで声《こえ》が聞《きこ》えますぜ」
 八五|郎《ろう》は得意《とくい》そうに小首《こくび》をかしげて、枝折戸《しおりど》の方《ほう》を指《ゆび》さした。

    五

 枝折戸《しおりど》の外《そと》に、外道《げどう》の面《つら》のような顔《かお》をして、ずんぐり立《た》って待《ま》っていた藤吉《とうきち》は、駕籠《かご》の中《なか》からこぼれ出《で》たおせんの裾《すそ》の乱《みだ》れに、今《いま》しもきょろりと、団栗《どんぐり》まなこを見張《みは》ったところだった。
「やッ、おせんちゃん。師匠《ししょう》がさっきから、首《くび》を長《なが》くしてお待《ま》ちかねだぜ」
 朱《しゅ》とお納戸《なんど》の、二こく[
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