ふさ》が、漸《ようや》く小豆大《あずきだい》のかたちをつらねた影《かげ》を、真下《ました》の流《なが》れに漂《ただよ》わせているばかりであった。
 池《いけ》と名付《なづ》ける程《ほど》ではないが、一|坪余《つぼあま》りの自然《しぜん》の水溜《みずたま》りに、十|匹《ぴき》ばかりの緋鯉《ひごい》が数《かぞ》えられるその鯉《こい》の背《せ》を覆《おお》って、なかば花《はな》の散《ち》りかけた萩《はぎ》のうねりが、一叢《ひとむら》ぐっと大手《おおて》を広《ひろ》げた枝《えだ》の先《さき》から、今《いま》しもぽたりと落《お》ちたひとしずく。波紋《はもん》が次第《しだい》に大《おお》きく伸《の》びたささやかな波《なみ》の輪《わ》を、小枝《こえだ》の先《さき》でかき寄《よ》せながら、じっと水《みず》の面《おも》を見詰《みつ》めていたのは、四十五の年《とし》よりは十|年《ねん》も若《わか》く見《み》える、五|尺《しゃく》に満《み》たない小作《こづく》りの春信《はるのぶ》であった。
 おおかた銜《くわ》えた楊枝《ようじ》を棄《す》てて、顔《かお》を洗《あら》ったばかりなのであろう。まだ右手《みぎて》に提《さ》げた手拭《てぬぐい》は、重《おも》く濡《ぬ》れたままになっていた。
「藤吉《とうきち》」
 春信《はるのぶ》は、鯉《こい》の背《せ》から眼《め》を放《はな》すと、急《きゅう》に思《おも》いだしたように、縁先《えんさき》の万年青《おもと》の葉《は》を掃除《そうじ》している、少年《しょうねん》の門弟《もんてい》藤吉《とうきち》を呼《よ》んだ。
「へえ」
「八つぁんは、まだ帰《かえ》って来《こ》ないようだの」
「へえ」
「おせんもまだ見《み》えないか」
「へえ」
「堺屋《さかいや》の太夫《たゆう》もか」
「へえ」
「おまえちょいと、枝折戸《しおりど》へ出《で》て見《み》て来《き》な」
「かしこまりました」
 藤吉《とうきち》は、万年青《おもと》の葉《は》から掃除《そうじ》の筆《ふで》を放《はな》すと、そのまま萩《はぎ》の裾《すそ》を廻《まわ》って、小走《こばし》りにおもてへ出《で》て行《い》った。
「今時分《いまじぶん》、おせんがいないはずはないから、ひょっとすると八五|郎《ろう》の奴《やつ》、途中《とちゅう》で誰《だれ》かに遇《あ》って、道草《みちくさ》を食《く》ってるのかも知《
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