若旦那《わかだんな》徳太郎《とくたろう》も、この例《れい》に漏《も》れず、日《ひ》に一|度《ど》は、判《はん》で捺《お》したように帳場格子《ちょうばごうし》の中《なか》から消《き》えて、目指《めざ》すは谷中《やなか》の笠森様《かさもりさま》、赤《あか》い鳥居《とりい》のそれならで、赤《あか》い襟《えり》からすっきりのぞいたおせんが雪《ゆき》の肌《はだ》を、拝《おが》みたさの心願《しんがん》に外《ほか》ならならなかったのであるが、きょうもきょうとて浅草《あさくさ》の、この春《はる》死《し》んだ志道軒《しどうけん》の小屋前《こやまえ》で、出会頭《であいがしら》に、ばったり遭《あ》ったのが彫工《ほりこう》の松《まつ》五|郎《ろう》、それと察《さっ》した松《まつ》五|郎《ろう》から、おもて飾《かざ》りを見《み》るなんざ大野暮《おおやぼ》の骨頂《こっちょう》でげす。おせんの桜湯《さくらゆ》飲《の》むよりも、帯紐《おびひも》解《と》いた玉《たま》の肌《はだ》が見《み》たかァござんせんかとの、思《おも》いがけない話《はなし》を聞《き》いて、あとはまったく有頂天《うちょうてん》、どこだどこだと訪《たず》ねるまでもなく、二|分《ぶ》の礼《れい》と着ていた羽織《はおり》を渡《わた》して、無我夢中《むがむちゅう》は、やがてこの垣根《かきね》の外《そと》となった次第《しだい》。――百|匹《ぴき》の蚊《か》が一|度《ど》に臑《すね》にとまっても、痛《いた》さもかゆさも感《かん》じない程《ほど》、徳太郎《とくたろう》の眼《め》は、野犬《やけん》のようにすわっていた。
「若旦那《わかだんな》」
「黙《だま》って。――」
「黙《だま》ってじゃァござんせん。もっと低《ひく》くおなんなすって。――」
「判《わか》ってるよ」
「そんならお速《はや》く」
「ええもういらぬお接介《せっかい》。――」
 おおかた、縁《えん》から上手《かみて》へ一|段《だん》降《お》りて戸袋《とぶくろ》の蔭《かげ》には既《すで》に盥《たらい》が用意《ようい》されて、釜《かま》で沸《わか》した行水《ぎょうずい》の湯《ゆ》が、かるい渦《うず》を巻《ま》いているのであろうが、上半身《じょうはんしん》を現《あら》わにしたまま、じっと虫《むし》の音《ね》に聴《き》きいっているおせんは、容易《ようい》に立《た》とうとしないばかりか、背《せ
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