》を流《なが》し目《め》に、呉絽《ごろ》の帯《おび》に手《て》をかけると、廻《まわ》り燈籠《どうろう》の絵《え》よりも速《はや》く、きりりと廻《まわ》ったただずまい、器用《きよう》に帯《おび》から脱《ぬ》け出《だ》して、さてもう一|廻《まわ》り、ゆるりと廻《まわ》った爪先《つまさき》を縁《えん》に停《とど》めたその刹那《せつな》、俄《にわか》に音《ね》を張《は》る鈴虫《すずむし》に、浴衣《ゆかた》を肩《かた》から滑《すべ》らせたまま、半身《はんしん》を縁先《えんさき》へ乗《の》りだした。
「南無《なむ》大願成就《だいがんじょうじゅ》。――」
「叱《し》ッ」
あとには再《ふたた》び虫《むし》の声《こえ》。
京師《けいし》の、花《はな》を翳《かざ》して過《すご》す上臈《じょうろう》達《たち》はいざ知《し》らず、天下《てんか》の大将軍《だいしょうぐん》が鎮座《ちんざ》する江戸《えど》八百八|町《ちょう》なら、上《うえ》は大名《だいみょう》の姫君《ひめぎみ》から、下《した》は歌舞《うたまい》の菩薩《ぼさつ》にたとえられる、よろず吉原《よしわら》千の遊女《ゆうじょ》をすぐっても、二人《ふたり》とないとの評判娘《ひょうんばんむすめ》。下谷《したや》谷中《やなか》の片《かた》ほとり、笠森稲荷《かさもりいなり》の境内《けいだい》に、行燈《あんどん》懸《か》けた十一|軒《けん》の水茶屋娘《みずちゃやむすめ》が、三十|余人《よにん》束《たば》になろうが、縹緻《きりょう》はおろか、眉《まゆ》一つ及《およ》ぶ者《もの》がないという、当時《とうじ》鈴木春信《すずきはるのぶ》が一|枚刷《まいずり》の錦絵《にしきえ》から、子供達《こどもたち》の毬唄《まりうた》にまで持《も》て囃《はや》されて、知《し》るも知《し》らぬも、噂《うわさ》の花《はな》は咲《さ》き放題《ほうだい》、かぎ屋《や》のおせんならでは、夜《よ》も日《ひ》も明《あ》けぬ煩悩《ぼんのう》は、血気盛《けっきざか》りの若衆《わかしゅう》ばかりではないらしく、何《なに》ひとつ心願《しんがん》なんぞのありそうもない、五十を越《こ》した武家《ぶけ》までが、雪駄《せった》をちゃらちゃらちゃらつかせてお稲荷詣《いなりもう》でに、御手洗《みたらし》の手拭《てぬぐい》は、常《つね》に乾《かわ》くひまとてないくらいであった。
橘屋《たちばなや》の
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