抱《しんぼう》しますとも、夜中《よなか》ンなろうが、夜《よ》が明《あ》けようが、ここは滅多《めった》に動《うご》くンじゃないけれど、お前《まえ》がもしか門違《かどちが》いで、おせんの家《うち》でもない人《ひと》の……」
「そ、それがいけねえというんで。……いくらあっしが酔狂《すいきょう》でも、若旦那《わかだんな》を知《し》らねえ家《いえ》の垣根《かきね》まで、引《ひ》っ張《ぱ》って来《く》る筈《はず》ァありませんや。松《まつ》五|郎《ろう》自慢《じまん》の案内役《あんないやく》、こいつばかりゃ、たとえ江戸《えど》がどんなに広《ひろ》くッても――」
「叱《し》ッ」
「うッ」
帯《おび》ははやりの呉絽《ごろ》であろう。引《ひ》ッかけに、きりりと結《むす》んだ立姿《たちすがた》、滝縞《たきじま》の浴衣《ゆかた》が、いっそ背丈《せたけ》をすっきり見《み》せて、颯《さっ》と簾《すだれ》の片陰《かたかげ》から縁先《えんさき》へ浮《う》き出《で》た十八|娘《むすめ》。ぽつんと一|本《ぽん》咲《さ》き初《はじ》めた、桔梗《ききょう》の花《はな》のそれにも増《ま》して、露《つゆ》は紅《べに》より濃《こま》やかであった。
明和《めいわ》戌年《いぬどし》秋《あき》八|月《がつ》、そよ吹《ふ》きわたるゆうべの風《かぜ》に、静《しず》かに揺《ゆ》れる尾花《おばな》の波路《なみじ》。娘《むすめ》の手《て》から、団扇《うちわ》が庭《にわ》にひらりと落《お》ちた。
二
顔《かお》を掠《かす》めて、ひらりと落《お》ちた桔梗《ききょう》の花《はな》のひとひらにさえ、音《おと》も気遣《きづか》う心《こころ》から、身動《みうご》きひとつ出来《でき》ずにいた、日本橋通《にほんばしとおり》油町《あぶらちょう》の紙問屋《かみどんや》橘屋徳兵衛《たちばなやとくべえ》の若旦那《わかだんな》徳太郎《とくたろう》と、浮世絵師《うきよえし》春信《はるのぶ》の彫工《ほりこう》松《まつ》五|郎《ろう》の眼《め》は、釘着《くぎづ》けにされたように、夕顔《ゆうがお》の下《した》から離《はな》れなかった。
が、よもやおのが垣根《かきね》の外《そと》に、二人《ふたり》の男《おとこ》が示《しめ》し合《あわ》せて、眼《め》をすえていようとは、夢想《むそう》もしなかったのであろう。娘《むすめ》は落《お》ちた団扇《うちわ
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