くまど》りでもしたように眼《め》の皮《かわ》をたるませた春重《はるしげ》の、上気《じょうき》した頬《ほほ》のあたりに、蝿《はえ》が一|匹《ぴき》ぽつんととまって、初秋《しょしゅう》の陽《ひ》が、路地《ろじ》の瓦《かわら》から、くすぐったい顔《かお》をのぞかせていた。
「おっといけねえ。春重《はるしげ》がやってくるぜ」
煙草屋《たばこや》の角《かど》に立《た》ったまま、爪《つめ》を煮《に》る噂《うわさ》をしていた松《まつ》五|郎《ろう》は、あわてて八五|郎《ろう》に目《め》くばせをすると、暖簾《のれん》のかげに身《み》を引《ひ》いた。
「隠《かく》れるこたぁなかろう」
「そうでねえ。おいらは今《いま》逃《に》げて来《き》たばかりだからの。見付《みつ》かっちァことだ」
「そんなら、そっちへ引《ひ》っ込《こ》んでるがいい。もののついでに、おれがひとつ、鎌《かま》をかけてやるから。――」
蛙《かえる》のように、眼玉《めだま》ばかりきょろつかせて暖簾《のれん》のかげから顔《かお》をだした松《まつ》五|郎《ろう》は、それでもまだ怯《おび》えていた。
「大丈夫《だいじょうぶ》かの」
「叱《し》ッ。そこへ来《き》たぜ」
出合頭《であいがしら》のつもりかなんぞの、至極《しごく》気軽《きがる》な調子《ちょうし》で、八五|郎《ろう》は春重《はるしげ》の前《まえ》へ立《た》ちふさがった。
「重《しげ》さん、大層《たいそう》早《はえ》えの」
びくっとしたように、春重《はるしげ》が爪先《つまさき》で立《た》ち止《どま》った。
「八つぁんか」
「八つぁんじゃねえぜ、一ぺえやったようないい顔色《かおいろ》をして、どこへ行《い》きなさる」
「柳湯《やなぎゆ》への」
「朝湯《あさゆ》たァしゃれてるの」
「しゃれてる訳《わけ》じゃねえが、寝《ね》ずに仕事《しごと》をしてたんで、湯《ゆ》へでも這入《はい》らねえことにゃ、はっきりしねえからよ」
「ふん、夜《よ》なべたァ恐《おそ》れ入《い》った。そんなに稼《かせ》いじゃ、銭《ぜに》がたまって仕方《しかた》があるめえ」
「だからよ。だから垢《あか》と一|緒《しょ》に、柳湯《やなぎゆ》へ捨《す》てに行《い》くところだ」
「ほう、済《す》まねえが、そんな無駄《むだ》な銭《ぜに》があるんなら、ちとこっちへ廻《まわ》して貰《もら》いてえの。おれだの松《まつ》五
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