《しゃく》二|間《けん》の家《うち》の中《なか》は再《ふたた》び元通《もとどお》りの夜《よる》の世界《せかい》に変《かわ》って行《い》った。
「上《あが》ンねえ」
が、松《まつ》五|郎《ろう》は、次第《しだい》に鼻《はな》を衝《つ》いてくる異様《いよう》な匂《におい》に、そのままそこへ佇《たたず》んでしまった。
四
行燈《あんどん》はほのかにともっていたものの、日向《ひなた》から這入《はい》って来《き》たばかりの松《まつ》五|郎《ろう》の眼《め》には、家《うち》の中《なか》は真《ま》ッ暗闇《くらやみ》であった。
「松《まつ》つぁん、何《な》んで上《あが》らねえんだ」
「暗《くら》くって、足《あし》もとが見《み》えやしねえ」
「不自由《ふじゆう》な眼《まなこ》だの。そんなこっちゃ、面白《おもしろ》い思《おも》いは出来《でき》ねえぜ」
「重《しげ》さん、おめえ、ずっと起《お》きて何《なに》をしてなすった」
「ふふふ。こっちへ上《あが》りゃァ、直《す》ぐに判《わか》るこッた。――まァこの行燈《あんどん》の傍《そば》へ来《き》て見《み》ねえ」
漸《ようや》く眼《め》に慣《な》れて来《き》たのであろう。行燈《あんどん》の輪《わ》が次第《しだい》に色《いろ》を濃《こ》くするにつれて、狭《せま》いあたりの有様《ありさま》は、おのずから松《まつ》五|郎《ろう》の前《まえ》にはっきり浮《う》き出《だ》した。
「絵《え》をかいてたんじゃねえのかい」
「絵《え》なんざかいちゃァいねえよ。――おめえにゃ、この匂《におい》がわからねえかの」
「膠《にかわ》だな」
「ふふ、膠《にかわ》は情《なさけ》ねえぜ」
「じゃァやっぱり、牛《うし》の皮《かわ》でも煮《に》てるのか」
「馬鹿《ばか》をいわッし。おいらが何《な》んで、牛《うし》の皮《かわ》に用《よう》があるんだ。もっともこの薬罐《やかん》の傍《そば》へ鼻《はな》を押《お》ッつけて、よく嗅《か》いで見ねえ」
「おいらァ、こんな匂《におい》は真《ま》ァ平《ぴら》だ」
「何《な》んだって。この匂《におい》がかげねえッて。ふふふ。世《よ》の中《なか》にこれ程《ほど》のいい匂《におい》は、またとあるもんじゃねえや、伽羅沈香《きゃらちんこう》だろうが、蘭麝《らんじゃ》だろうが及《およ》びもつかねえ、勿体《もったい》ねえくれえの名香《めい
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