、それこそ生皮《なまかわ》の匂《におい》で、隣近所《となりきんじょ》は大迷惑《おおめいわく》だわな」
「生皮《なまかわ》の匂《におい》ってななんだの、お上《かみ》さん」
「おや、親方《おやかた》にゃこの匂《におい》がわからないのかい。このたまらないいやな[#「いやな」に傍点]匂《におい》が。……」
「判《わか》らねえこたァねえが、こいつァおまえ、膠《にかわ》を煮《に》てる匂《におい》だわな」
「冗談《じょうだん》じゃない。そんな生《なま》やさしいもんじゃありゃァしない。お鍋《なべ》を火鉢《ひばち》へかけて、雪駄《せった》の皮《かわ》を煮《に》てるんだよ。今《いま》もうちで、絵師《えし》なんて振《ふ》れ込《こ》みは、大嘘《おおうそ》だって話《はなし》を。……」
 がらッと雨戸《あまど》が開《あ》いて、春重《はるしげ》の辛《から》い顔《かお》がぬッと現《あらわ》れた。
「お早《は》よう」
「お早《は》ようじゃねえや。何《な》んだって松《まつ》つぁんこんな早《はや》くッからやって来《き》たんだ」
「早《はや》えことがあるもんか。お天道様《てんとうさま》は、もうとっくに朝湯《あさゆ》を済《す》まして、あんなに高《たか》く昇《のぼ》ってるじゃねえか。――いってえ重《しげ》さん。おめえ、寝《ね》てえたんだか起《お》きてたんだか、なぜ返事《へんじ》をしてくれねえんだ」
「返事《へんじ》なんざ、しちゃァいられねえよ。――いいからこっちへ這入《はい》ンねえ」
 不機嫌《ふきげん》な春重《はるしげ》の顔《かお》は、桐油《とうゆ》のように強張《こわば》っていた。
「へえってもいいかい」
「帰《かえ》るんなら帰《かえ》ンねえ」
「いやにおどかすの」
「振《ふ》られた朝帰《あさがえ》りなんぞに寄《よ》られちゃ、かなわねえ」
「ふふふ。振《ふ》られてなんざ来《き》ねえよ。それが証拠《しょうこ》にゃ、いい土産《みやげ》を持《も》って来《き》た」
「土産《みやげ》なんざいらねえから、そこを締《し》めたら、もとの通《とお》り、ちゃんと心張棒《しんばりぼう》をかけといてくんねえ」
「重《しげ》さん、おめえまだ寝《ね》るつもりかい」
「いいから、おいらのいった通《とお》りにしてくんねえよ」
 松《まつ》五|郎《ろう》が不承無承《ふしょうぶしょう》に、雨戸《あまど》の心張棒《しんばりぼう》をかうと、九|尺
前へ 次へ
全132ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング