しろ》くもねえ。それもこれも、みんなおいらのせえだッてんじゃ、てんで立《た》つ瀬《せ》がありゃしねえや。どこの殿様《とのさま》がこさえたたとえか知《し》らねえが、長《なが》い物《もの》にゃ巻《ま》かれろなんて、あんまり向《むこ》うの都合《つごう》が良過《よす》ぎるぜ。橘屋《たちばなや》の若旦那《わかだんな》は、八百|蔵《ぞう》に生《い》き写《うつ》しだなんて、つまらねえお世辞《せじ》をいわれるもんだから、当人《とうにん》もすっかりいい気《き》ンなってるんだろうが、八百|蔵《ぞう》はおろか、八百|屋《や》の丁稚《でっち》にだって、あんな面《つら》があるもんか。飛《と》んだ料簡違《りょうけんちが》いのこんこんちきだ」
 誰《だれ》にいうともない独言《ひとりごと》ながら、吉原《よしわら》への供《とも》まで見事《みごと》にはねられた、版下彫《はんしたぼり》の松《まつ》五|郎《ろう》は、止度《とめど》なく腹《はら》の底《そこ》が沸《に》えくり返《かえ》っているのであろう。やがて二三|丁《ちょう》も先《さき》へ行《い》ってしまった徳太郎《とくたろう》の背後《はいご》から、浴《あ》びせるように罵《ののし》っていた。
「おいおい松《まっ》つぁん」
「えッ」
「はッはッは。何《なに》をぶつぶついってるんだ。三日月様《みかづきさま》が笑《わら》ってるぜ」
「お前《まえ》さんは。――」
「おれだよ。春重《はるしげ》だよ」
 うしろから忍《しの》ぶようにして付《つ》いて来《き》た男《おとこ》は、そういいながら徐《おもむ》ろに頬冠《ほおかぶ》りをとったが、それは春信《はるのぶ》の弟子《でし》の内《うち》でも、変《かわ》り者《もの》で通《とお》っている春重《はるしげ》だった。
「なァんだ、春重《はるしげ》さんかい。今時分《いまじぶん》、一人《ひとり》でどこへ行《い》きなすった」
「一人《ひとり》でどこへは、そっちより、こっちで訊《き》きたいくらいのもんだ。――お前《まえ》、橘屋《たちばなや》の徳《とく》さんにまかれたな」
「まかれやしねえが、どうしておいらが、若旦那《わかだんな》と一|緒《しょ》だったのを知《し》ってるんだ」
「ふふふ。平賀源内《ひらがげんない》の文句《もんく》じゃねえが、春重《はるしげ》の眼《め》は、一|里《り》先《さき》まで見透《みとお》しが利《き》くんだからの。お前《まえ
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