、文字太夫《もじだゆう》も跣足《はだし》だて」
「それはもう御隠居様《ごいんきょさま》。滅法《めっぽう》名代《なだい》の土平《どへい》でござんす。これ程《ほど》のいい声《こえ》は、鉦《かね》と太鼓《たいこ》で探《さが》しても、滅多《めった》にあるものではござんせぬ」
「御隠居《ごいんきょ》は、土平《どへい》の声《こえ》を、始《はじ》めてお聞《き》きなすったのかい」
「左様《さよう》」
「これはまた迂濶《うかつ》千|万《ばん》。飴売《あめうり》土平《どへい》は、近頃《ちかごろ》江戸《えど》の名物《めいぶつ》でげすぜ」
「いや、噂《うわさ》はかねて聞《き》いておったが、眼《め》で見《み》たのは今《いま》が初《はじ》めて。まことにはや。面目次第《めんぼくしだい》もござりませぬて」
「はははは。お前様《まえさま》は、おなじ名代《なだい》なら、やっぱりおせんの方《ほう》が、御贔屓《ごひいき》でげしょう」
「決《けっ》して左様《さよう》な訳《わけ》では。……」
「お隠《かく》しなさいますな。それ、そのお顔《かお》に書《か》いてある」
 見物《けんぶつ》の一人《ひとり》が、近《ちか》くにいる隠居《いんきょ》の顔《かお》を指《さ》した時《とき》だった、誰《だれ》かが突然《とつぜん》頓狂《とんきょう》な声《こえ》を張《は》り上《あ》げた。
「おせんが来《き》た。あすこへおせんが帰《かえ》って来《き》た」

    二

「なに、おせんだと」
「どこへどこへ」
 飴売《あめうり》土平《どへい》の道化《どうけ》た身振《みぶ》りに、われを忘《わす》れて見入《みい》っていた人達《ひとたち》は、降《ふ》って湧《わ》いたような「おせんが来《き》た」という声《こえ》を聞《き》くと、一|齊《せい》に首《くび》を東《ひがし》へ振《ふ》り向《む》けた。
「どこだの」
「あすこだ。あの松《まつ》の木《き》の下《した》へ来《く》る」
 斜《なな》めにうねった道角《みちかど》に、二抱《ふたかか》えもある大松《おおまつ》の、その木《き》の下《した》をただ一人《ひとり》、次第《しだい》に冴《さ》えた夕月《ゆうづき》の光《ひかり》を浴《あ》びながら、野中《のなか》に咲《さ》いた一|本《ぽん》の白菊《しらぎく》のように、静《しず》かに歩《あゆ》みを運《はこ》んで来《く》るほのかな姿《すがた》。それはまごう方《かた》な
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