い見世《みせ》から帰《かえ》りのおせんであった。
「違《ちげ》えねえ。たしかにおせんだ」
「そら行《い》け」
 駆《か》け出《だ》す途端《とたん》に鼻緒《はなお》が切《き》れて、草履《ぞうり》をさげたまま駆《か》け出《だ》す小僧《こぞう》や、石《いし》に躓《つまず》いてもんどり打《う》って倒《たお》れる職人《しょくにん》。さては近所《きんじょ》の生臭坊主《なまぐさぼうず》が、俗人《ぞくじん》そこのけに目尻《めじり》をさげて追《お》いすがるていたらく。所詮《しょせん》は男《おとこ》も女《おんな》もなく、おせんに取《と》っては迷惑千万《めいわくせんばん》に違《ちが》いなかろうが、遠慮会釈《えんりょえしゃく》はからりと棄《す》てた厚《あつ》かましさからつるんだ犬《いぬ》を見《み》に行《ゆ》くよりも、一|層《そう》勢《きお》い立《た》って、どっとばかりに押《お》し寄《よ》せた。
「いやだよ直《なお》さん、そんなに押《お》しちゃァ転《ころ》ンじまうよ」
「人《ひと》の転《ころ》ぶことなんぞ、遠慮《えんりょ》してたまるもんかい。速《はや》く行《い》って触《さわ》らねえことにゃ、おせんちゃんは帰《かえ》ッちまわァ」
「おッと退《ど》いた退《ど》いた。番太郎《ばんたろう》なんぞの見《み》るもンじゃねえ」
「馬鹿《ばか》にしなさんな。番太郎《ばんたろう》でも男《おとこ》一|匹《ぴき》だ。綺麗《きれい》な姐《ねえ》さんは見《み》てえや」
「さァ退《ど》いた、退《ど》いた」
「火事《かじ》だ火事《かじ》だ」
 人《ひと》の心《こころ》が心《こころ》に乗《の》って、愈《いよいよ》調子《ちょうし》づいたのであろう。茶代《ちゃだい》いらずのその上《うえ》にどさくさまぎれの有難《ありがた》さは、たとえ指先《ゆびさき》へでも触《さわ》れば触《さわ》り得《どく》と考《かんが》えての悪戯《いたずら》か。ここぞとばかり、息《いき》せき切《き》って駆《か》け着《つ》けた群衆《ぐんしゅう》を苦笑《くしょう》のうちに見守《みまも》っていたのは、飴売《あめうり》の土平《どへい》だった。
「ふふふふ。飴《あめ》も買《か》わずに、おせん坊《ぼう》へ突《つ》ッ走《ぱし》ったな豪勢《ごうせい》だ。こんな鉄錆《てつさび》のような顔《かお》をしたおいらより、油壺《あぶらつぼ》から出《で》たよなおせん坊《ぼう》の方《ほう》が
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