の来《こ》ぬ間《ま》に、早《はや》くも弱《よわ》り果《は》てた蟋蟀《こおろぎ》であろう。床下《ゆかした》にあえぐ音《ね》が細々《ほそぼそ》と聞《き》かれた。

  月《つき》


    一

「――そら来《き》た来《き》なんせ、土平《どへい》の飴《あめ》じゃ。大人《おとな》も子供《こども》も銭《ぜに》持《も》っておいで。当時《とうじ》名代《なだい》の土平《どへい》の飴《あめ》じゃ。味《あじ》がよくってで[#「で」に傍点]があって、おまけに肌理《きめ》が細《こま》こうて、笠森《かさもり》おせんの羽《は》二|重肌《えはだ》を、紅《べに》で染《そ》めたような綺麗《きれい》な飴《あめ》じゃ。買《か》って往《ゆ》かんせ、食《た》べなんせ。天竺渡来《てんじくとらい》の人参飴《にんじんあめ》じゃ。何《な》んと皆《みな》の衆《しゅう》合点《がってん》か」
 もはや陽《ひ》が落ちて、空《そら》には月《つき》さえ懸《かか》っていた。その夕月《ゆうづき》の光《ひかり》の下《した》に、おのが淡《あわ》い影《かげ》を踏《ふ》みながら、言葉《ことば》のあやも面白《おもしろ》おかしく、舞《ま》いつ踊《おど》りつ来懸《きかか》ったのは、この春頃《はるごろ》から江戸中《えどじゅう》を、隈《くま》なく歩《ある》き廻《まわ》っている飴売土平《あめうりどへい》。まだ三十にはならないであろう。おどけてはいるが、どこか犯《おか》し難《がた》いところのある顔《かお》かたちは、敵《かたき》持《も》つ武家《ぶけ》が、世《よ》を忍《しの》んでの飴売《あめうり》だとさえ噂《うわさ》されて、いやが上《うえ》にも人気《にんき》が高《たか》く、役者《やくしゃ》ならば菊之丞《きくのじょう》、茶屋女《ちゃやおんな》なら笠森《かさもり》おせん、飴屋《あめや》は土平《どへい》、絵師《えし》は春信《はるのぶ》と、当時《とうじ》切《き》っての評判者《ひょうばんもの》だった。
「わッ、土平《どへい》だ土平《どへい》だ」
「それ、みんな来《こ》い、みんな来《こ》いやァイ」
「お母《っか》ァ、銭《ぜに》くんな」
「父《ちゃん》、おいらにも銭《ぜに》くんな」
「あたいもだ」
「あたしもだ」
 軒端《のきば》に立《た》つ蚊柱《かばしら》のように、どこからともなく集《あつ》まって来《き》た子供《こども》の群《むれ》は、土平《どへい》の前後左右《ぜ
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