ちらへお通《とお》り下《くだ》さりませ」
「しかし、わたしが上《あが》っても、いいのか」
「何《なに》を仰《おっ》しゃいます。狭苦《せまくる》しゅうはござりますが、御辛抱《ごしんぼう》しやはりまして。……」
「では遠慮《えんりょ》なしに、通《とお》してもらいましょうか。……のう太夫《たゆう》」
 座敷へ上《あが》って、膝《ひざ》を折《お》ると同時《どうじ》に、春信《はるのぶ》の眼《め》は険《けわ》しく松江《しょうこう》を見詰《みつ》めた。
「今更《いまさら》あらためて、こんなことを訊《き》くのも野暮《やぼ》の沙汰《さた》だが、おこのさんといいなさるのは、確《たしか》にお前《まえ》さんの御内儀《ごないぎ》だろうのう」
「何《な》んといやはります」
 松江《しょうこう》のおもてには、不安《ふあん》の色《いろ》が濃《こ》い影《かげ》を描《えが》いた。
「深《ふか》いことはどうでもいいが、ただそれだけを訊《き》かしてもらいたいと思《おも》っての。あれが太夫《たゆう》の御内儀《ごないぎ》なら、わたしはこれから先《さき》、お前《まえ》さんと、二|度《ど》と顔《かお》を合《あ》わせまいと、心《こころ》に固《かた》く極《き》めて来《き》たのさ」
「えッ。ではやはり。……」
「太夫《たゆう》。つまらない面《つら》あてでいう訳《わけ》じゃないが、お前《まえ》さんは、いいお上《かみ》さんを持《も》ちなすって、仕合《しあわせ》だの。――帯《おび》はたしかにわたしの手《て》から、おせんのとこへ返《かえ》そうから、少《すこ》しも懸念《けねん》には、及《およ》ばねえわな」
「どうぞ堪忍《かんにん》しておくれやす」
「お前《まえ》さんにあやまらせようと思《おも》って、こんなにおそく、わざわざひとりで出《で》て来《き》た訳《わけ》じゃァさらさらない。詫《わび》なんぞは無用《むよう》にしておくんなさい」
「なんで、これがお詫《わび》せいでおられましょう。愚《ぐ》なおこのが、いらぬことを仕出来《しでか》しました心《こころ》なさからお師匠《ししょう》さんに、このようないやな思《おも》いをおさせ申《もう》しました。堺屋《さかいや》、穴《あな》があったら這入《はい》りとうおます」
 松江《しょうこう》は、われとわが手《て》で顔《かお》を掩《おお》ったまま、暫《しば》し身《み》じろぎもしなかった。
 霜《しも》
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