》からおもてに遁《のが》れた。

    七

 鏡《かがみ》のおもてに映《うつ》した眉間《みけん》に、深《ふか》い八の字《じ》を寄《よ》せたまま、ただいらいらした気持《きもち》を繰返《くりかえ》していた中村松江《なかむらしょうこう》は、ふと、格子戸《こうしど》の外《そと》に人《ひと》の訪《おとず》れた気配《けはい》を感《かん》じて、じッと耳《みみ》を澄《すま》した。
「もし、今晩《こんばん》は。――今晩《こんばん》は」
(おお、やはりうちかいな)
 そう、思《おも》った松江《しょうこう》は、次《つぎ》の座敷《ざしき》まで立《た》って行《い》って、弟子《でし》のいる裏《うら》二|階《かい》へ声《こえ》をかけた。
「これ富江《とみえ》、松代《まつよ》、誰《だれ》もいぬのか。お客《きゃく》さんがおいでなされたようじゃ」
 が、先刻《せんこく》新《しん》七におこのの後《あと》を追《お》わせた隙《すき》に、二人《ふたり》とも、どこぞ近所《きんじょ》へまぎれて行《い》ったのであろう。もう一|度《ど》呼《よ》んで見《み》た松江《しょうこう》の耳《みみ》には、容易《ようい》に返事《へんじ》が戻《もど》っては来《こ》なかった。
「ええけったいな、何《な》んとしたのじゃ。お客《きゃく》さんじゃというのに。――」
 口小言《くちこごと》をいいながら、自《みずか》ら格子戸《こうしど》のところまで立《た》って行《い》った松江《しょうこう》は、わざと声音《こわね》を変《か》えて、低《ひく》く訊《たず》ねた。
「どなた様《さま》でござります」
「わたしだ」
「へえ」
「白壁町《しろかべちょう》の春信《はるのぶ》だよ」
「えッ」
 驚《おどろ》きと、土間《どま》を駆《か》け降《お》りたのが、殆《ほとん》ど同時《どうじ》であった。
「お師匠《ししょう》さんでおましたか。これはまァ。……」
 がらりと開《あ》けた雨戸《あまど》の外《そと》に、提灯《ちょうちん》も持《も》たずに、独《ひと》り蒼白《あおじろ》く佇《たたず》んだ春信《はるのぶ》の顔《かお》は暗《くら》かった。
「面目次第《めんぼくしだい》もござりませぬ。――でもまァ、ようおいでで。――」
「ふふふ。あんまりよくもなかろうが、ちと、来《き》ずには済《す》まされぬことがあっての」
「そこではお話《はなし》も出来《でき》ませんで。……どうぞ、こ
前へ 次へ
全132ページ中82ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング