そで》を通《とお》したまま、早《はや》くも姿《すがた》は枝折戸《しおりど》の外《そと》に消《き》えていた。
「藤吉《とうきち》。――藤吉《とうきち》」
「へえ」
 奥《おく》からの声《こえ》は、この春《はる》まで十五|年《ねん》の永《なが》い間《あいだ》、番町《ばんちょう》の武家屋敷《ぶけやしき》へ奉公《ほうこう》に上《あが》っていた。春信《はるのぶ》の妹《いもうと》梶女《かじじょ》だった。
「ここへ来《き》や」
「へえ」
 お屋敷者《やしきもの》の見識《けんしき》とでもいうのであろうか。足《あし》が不自由《ふじゆう》であるにも拘《かかわ》らず、四十に近《ちか》い顔《かお》には、触《ふれ》れば剥《は》げるまでに濃《こ》く白粉《おしろい》を塗《ぬ》って、寝《ね》る時《とき》より外《ほか》には、滅多《めった》に放《はな》したことのない長煙管《ながぎせる》を、いつも膝《ひざ》の上《うえ》についていた。
「お兄様《にいさま》は、どちらにお出《で》かけなされた」
「さァ、どこへおいでなさいましたか、つい仰《おっ》しゃらねえもんでござんすから。……」
「何《なに》をうかうかしているのじゃ。知《し》らぬで済《す》もうとお思《おも》いか。なぜお供《とも》をせぬのじゃ」
「そう申《もう》したのでござんすが、師匠《ししょう》はひどくお急《いそ》ぎで、行《い》く先《さき》さえ仰《おっ》しゃらねえんで。……」
「直《す》ぐに行《い》きゃ」
「へ」
「提灯《ちょうちん》を持《も》って直《す》ぐに、後《あと》を追《お》うて行《い》きゃというのじゃ」
「と仰《おっ》しゃいましても、どっちへお出《で》かけか、方角《ほうがく》も判《わか》りゃァいたしやせん」
「まだ出《で》たばかりじゃ。そこまで行《い》けば直《す》ぐに判《わか》ろう。たじろいでいる時《とき》ではない。速《はよ》う。速《はよ》う」
 この上《うえ》躊躇《ちょうちょ》していたら、持《も》った煙管《きせる》で、頭《あたま》のひとつも張《は》られまじき気配《けはい》となっては、藤吉《とうきち》も、立《た》たない訳《わけ》には行《い》かなかった。
 提灯《ちょうちん》は提灯《ちょうちん》、蝋燭《ろうそく》は蝋燭《ろうそく》と、右《みぎ》と左《ひだり》に別々《べつべつ》につかんだ藤吉《とうきち》は、追《お》われるように、梶女《かじじょ》の眼《め
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