「えッ」
「おれだよ。彫職人《ほりしょくにん》の松《まつ》五|郎《ろう》」

    六

 留《と》めるのもきかずに松《まつ》五|郎《ろう》が火《ひ》のようになって出《で》て行《い》ってしまった後《あと》の画室《がしつ》には、春信《はるのぶ》がただ一人《ひとり》おこのの置《お》いて行《い》った帯《おび》を前《まえ》にして、茫然《ぼうぜん》と煙管《きせる》をくわえていたが、やがて何《なに》か思《おも》いだしたのであろう。突然《とつぜん》顔《かお》をあげると、吐《は》きだすように藤吉《とうきち》を呼《よ》んだ。
「藤吉《とうきち》。――これ藤吉《とうきち》」
「へえ」
 いつにない荒《あら》い言葉《ことば》に、あわてて次《つぎ》の間《ま》から飛《と》んで出《で》た藤吉《とうきち》は、敷居際《しきいぎわ》で、もう一|度《ど》ぺこりと頭《あたま》を下《さ》げた。
「何《なに》か御用《ごよう》で」
「羽織《はおり》を出《だ》しな」
「へえ。――どッかへお出《で》かけなさるんで。……」
「余計《よけい》な口《くち》をきかずに、速《はや》くするんだ」
「へえ」
 何《なに》が何《なに》やら、一|向《こう》見当《けんとう》が付《つ》かなくなった藤吉《とうきち》は、次《つぎ》の間《ま》に取《と》って返《かえ》すと、箪笥《たんす》をがたぴしいわせながら、春信《はるのぶ》が好《この》みの鶯茶《うぐいすちゃ》の羽織《はおり》を、捧《ささ》げるようにして戻《もど》って来《き》た。
「これでよろしいんで。……」
 それには答《こた》えずに、藤吉《とうきち》の手《て》から羽織《はおり》を、ひったくるように受取《うけと》った春信《はるのぶ》の足《あし》は、早《はや》くも敷居《しきい》をまたいで、縁先《えんさき》へおりていた。
「師匠《ししょう》、お供《とも》をいたしやす」
「独《ひと》りでいい」
「お一人《ひとり》で。……そんなら提灯《ちょうちん》を。――」
 が、春信《はるのぶ》の心《こころ》は、やたらに先《さき》を急《いそ》いでいたのであろう。いつもなら、藤吉《とうきち》を供《とも》に連《つ》れてさえ、夜道《よみち》を歩《あるく》くには、必《かなら》ず提灯《ちょうちん》を持《も》たせるのであったが、今《いま》はその提灯《ちょうちん》を待《ま》つ間《ま》ももどかしく、羽織《はおり》の片袖《かた
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