という、鷺娘《さぎむすめ》の絵《え》のことじゃ。――ええからそこを退《の》きなされ」
「いいや、それはなりません。お上《かみ》さんは、確《たしか》に持《も》ってお出《いで》なされたはず。もう一|度《ど》手前《てまえ》と一|緒《しょ》に、白壁町《しろかべちょう》のお宅《たく》へ、お戻《もど》りなすって下《くだ》さりませ」
「なにいうてんのや。わたしが戻《もど》ったとて、知《し》らぬものが、あろうはずがあるかいな。――こうしてはいられぬのじゃ。そこ退《の》きやいの」
 おこのが払《はら》った手《て》のはずみが、ふと肩《かた》から滑《すべ》ったのであろう。袂《たもと》を放《はな》したその途端《とたん》に、新《しん》七はいやという程《ほど》、おこのに頬《ほほ》を打《う》たれていた。
「あッ。お打《う》ちなさいましたな」
「打《う》ったのではない。お前《まえ》が、わたしの手《て》を取《と》りやはって。……」
「ええ、もう辛抱《しんぼう》がなりませぬ。手前《てまえ》と一|緒《しょ》にもう一|度《ど》、春信《はるのぶ》さんのお宅《たく》まで、とっととおいでなさりませ」
 ぐっとおこのの手首《てくび》をつかんだ新《しん》七には、もはや主従《しゅじゅう》の見《み》さかいもなくなっていたのであろう。たとえ何《な》んであろうと、引《ひき》ずっても連《つ》れて行《い》かねばならぬという、強《つよ》い意地《いじ》が手伝《てつだ》って、荒々《あらあら》しく肩《かた》に手《て》をかけた。
「これ、新《しん》七、何《なに》をしやる」
「何《なに》もかもござりませぬ。あの帯《おび》は、太夫《たゆう》が今度《こんど》の芝居《しばい》にはなくてはならない大事《だいじ》な衣装《いしょう》、手前《てまえ》がひとりで行《い》ったとて、春信《はるのぶ》さんは渡《わた》しておくんなさいますまい。どうでもお前様《まえさま》を一|緒《しょ》に連《つ》れて。――」
「ええ、行《い》かぬ。何《な》んというてもわしゃ行《い》かぬ」
 星《ほし》のみ光《ひか》った空《そら》の下《した》に、二つのかたちは、犬《いぬ》の如《ごと》くに絡《から》み合《あ》っていた。
「ふふふふ。みっともねえ。こんなことであろうと思《おも》って、後《あと》をつけて来《き》たんだが、お上《かみ》さん、こいつァ太夫《たゆう》さんの辱《はじ》ンなるぜ」

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