もなく、本読《ほんよ》みも済《す》んで、愈《いよいよ》稽古《けいこ》にかかった四五|日《にち》は、寝《ね》る間《ま》をつめても、次《つぎ》の間《ま》に控《ひか》えて、茶《ちゃ》よ菓子《かし》よと、女房《にょうぼう》の勤《つと》めに、さらさら手落《ておち》はなく過《す》ぎたのであったが、さて稽古《けいこ》が積《つ》んで、おのれの工夫《くふう》が真剣《しんけん》になる時分《じぶん》から、ふと眼《め》についたのは、良人《おっと》の居間《いま》に大事《だいじ》にたたんで置《お》いてある、もみじを散《ち》らした一|本《ぽん》の女帯《おんなおび》だった。
 買《か》った衣装《いしょう》というのなら、誰《だれ》に見《み》しょうとて、別《べつ》に邪間《じゃま》になるまいと思《おも》われる、その帯《おび》だけに殊更《ことさら》に、夜寝《よるね》る時《とき》まで枕許《まくらもと》へ引《ひ》き付《つけ》ての愛着《あいちゃく》は、並大抵《なみたいてい》のことではないと、疑《うたが》うともなく疑《うたが》ったのが、事《こと》の始《はじ》まりというのであろうか。おこのが昼《ひる》といわず夜といわず、ひそかに睨《にら》んだとどのつまりは、独《ひと》り四|畳半《じょうはん》に立籠《たてこ》もって、おせんの型《かた》にうき身《み》をやつす、良人《おっと》の胸《むね》に巻《ま》きつけた帯《おび》が、春信《はるのぶ》えがくところの、おせんの大事《だいじ》な持物《もちもの》だった。
 カッとなって、持《も》ち出《だ》したのではもとよりなく、きのうもきょうもと、二日二晩《ふつかふたばん》考《かんが》え抜《ぬ》いた揚句《あげく》の果《は》てが、隣座敷《となりざしき》で茶《ちゃ》を入《い》れていると見《み》せての、雲隠《くもがくれ》れが順《じゅん》よく運《はこ》んで、大通《おおどお》りへ出《で》て、駕籠《かご》を拾《ひろ》うまでの段取《だんどり》りは、誰一人《だれひとり》知《し》る者《もの》もなかろうと思《おも》ったのが、手落《ておち》といえばいえようが、それにしても、新《しん》七が後《あと》を追《お》って来《き》ようなぞとは、まったく夢《ゆめ》にも想《おも》わなかった。
「駕籠屋《かごや》さん。済《す》まんが、急《いそ》いどくれやすえ」
「へいへい、合点《がってん》でげす。月《つき》はなくとも星明《ほしあか》
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