、雨《あめ》は容赦《ようしゃ》なく降《ふ》りかかって、いつの間《ま》にか人《ひと》だかりのした辺《あたり》の有様《ありさま》に、徳太郎《とくたろう》は思《おも》わず亀《かめ》の子《こ》のように首《くび》をすくめた。
「もし、若旦那《わかだんな》」
 円《まる》く取巻《とりま》いた中《なか》から、ひょっこり首《くび》だけ差《さ》し伸《の》べて、如何《いか》にも憚《はばか》った物腰《ものごし》の、手《て》を膝《ひざ》の下《した》までさげたのは、五十がらみのぼて[#「ぼて」に傍点]振《ふ》り魚屋《さかなや》だった。
 徳太郎《とくたろう》は、偸《ぬす》むように顔《かお》を挙《あ》げた。
「手前《てまえ》でございます。市松《いちまつ》の親父《おやじ》でございます」
「えッ」
「通《とお》りがかりの御挨拶《ごあいさつ》で、何《な》んとも恐《おそ》れいりますが、どうやら、市松《いちまつ》の野郎《やろう》が、飛《と》んだ粗相《そそう》をいたしました様子《ようす》。早速《さっそく》連《つ》れて帰《かえ》りまして、性根《しょうね》の坐《すわ》るまで、責《せ》め折檻《せっかん》をいたします。どうかこのまま。手前《てまえ》にお渡《わた》し下《くだ》さいまし」
「おッとッとッと。父《とっ》つぁん、そいつァいけねえ。おいらが悪《わる》いようにしねえから、おめえはそっちに引《ひ》ッ込《こ》んでるがいい」
 松《まつ》五|郎《ろう》が親爺《おやじ》を制《せい》している隙《すき》に、徳太郎《とくたろう》の姿《すがた》は、いつか人込《ひとご》みの中《なか》へ消《き》えていた。

    七

「政吉《まさきち》、辰蔵《たつぞう》、亀《かめ》八、分太《ぶんた》、梅吉《うめきち》、幸兵衛《こうべえ》。――」
 殆《ほと》んどひといきに、二三|日前《にちまえ》に奉公《ほうこう》に来《き》た八|歳《さい》の政吉《まさきち》から、番頭《ばんとう》の幸兵衛《こうべえ》まで、やけ[#「やけ」に傍点]半分《はんぶん》に呼《よ》びながら、中《なか》の口《くち》からあたふたと駆《か》け込《こ》んで来《き》た徳太郎《とくたろう》は、髷《まげ》の刷毛先《はけさき》に届《とど》く、背中《せなか》一|杯《ぱい》の汚泥《はね》も忘《わす》れたように、廊下《ろうか》の暖簾口《のれんぐち》で地駄《じだ》ン駄《だ》踏《ふ》んで、おのが
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