ぴく動《うご》いていた。
「市公《いちこう》」
思《おも》いがけない出来事《できごと》に、茫然《ぼうぜん》としていた小僧《こぞう》の市松《いちまつ》が、ぺこりと下《さ》げた頭《あたま》の上《うえ》で、若旦那《わかだんな》の声《こえ》はきりぎりすのようにふるえた。
「馬鹿野郎《ばかやろう》」
「へえ」
「なぜおせんを捕《つか》まえないんだ」
「お放《はな》しなすったのは、若旦那《わかだんな》でございます」
「ええうるさい。たとえあたしが放《はな》しても、捕《つか》まえるのはお前《まえ》の役目《やくめ》だ。――もうお前《まえ》なんぞに用《よう》はない。今《いま》すぐここで暇《ひま》をやるから、どこへでも行《い》っておしまい」
「ははは。若旦那《わかだんな》」と、松《まつ》五|郎《ろう》が口《くち》をはさんだ。「そいつァちと責《せ》めが強過《つよす》ぎやしょう。小僧《こぞう》さんに罪《つみ》はねえんで。みんなあなたの我《わが》ままからじゃござんせんか」
「松《まつ》つぁん、お前《まえ》なんぞの出《で》る幕《まく》じゃないよ。黙《だま》ってておくれ」
「そうでもござんしょうが、市《いち》どんこそ災難《さいなん》だ。何《な》んにも知《し》らずにお供《とも》に来《き》て、おせんに遭《あ》ったばっかりに、大事《だいじ》な奉公《ほうこう》をしくじるなんざ、辻占《つじうらない》の文句《もんく》にしても悪過《わるす》ぎやさァね。堪忍《かんにん》してやっとくんなさい。――こう市《いち》どん。おめえもしっかり、若旦那《わかだんな》にあやまんねえ」
「若旦那《わかだんな》、どうか御勘弁《ごかんべん》なすっておくんなさいまし」
「いやだよ。お前《まえ》は、もう家《うち》の奉公人《ほうこうにん》でもなけりゃ、あたしの供《とも》でもないんだから、ちっとも速《はや》くあたしの眼《め》の届《とど》かないとこへ消《き》えちまうがいい」
「消《け》えろとおっしゃいましても。……」
「判《わか》らずやめ。泥《どろ》の中《なか》へでも何《な》んでも、勝手《かって》にもぐって失《う》せるんだ」
「へえ」
尻《しり》ッ端折《ぱしょ》りの尾※[#「骨+低のつくり」、第3水準1−94−21]骨《かめのお》のあたりまで、高々《たかだか》と汚泥《はね》を揚《あ》げた市松《いちまつ》の、猫背《ねこぜ》の背中《せなか》へ
前へ
次へ
全132ページ中63ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング