さ》えた袂《たもと》を振《ふ》り払《はら》って、おせんが体《からだ》をひねったその刹那《せつな》、ひょいと徳太郎《とくたろう》の手首《てくび》をつかんで、にやり笑《わら》ったのは、傘《かさ》もささずに、頭《あたま》から桐油《とうゆ》を被《かぶ》った彫師《ほりし》の松《まつ》五|郎《ろう》だった。
「若旦那《わかだんな》、殺生《せっしょう》でげすぜ」
「ええ、うるさい。余計《よけい》な邪間《じゃま》だてをしないで、引《ひ》ッ込《こ》んでおくれ」
「はははは。邪間《じゃま》だてするわけじゃござんせんが、御覧《ごらん》なせえやし。おせんちゃんは、こんなにいやだといってるじゃござんせんか。若旦那《わかだんな》、色男《いろおとこ》の顔《かお》がつぶれやすぜ」
過日《かじつ》の敵《かたき》を討《う》ったつもりなのであろう。松《まつ》五|郎《ろう》はこういって、髯《ひげ》あとの青《あお》い顎《あご》を、ぐっと徳太郎《とくたろう》の方《ほう》へ突《つ》きだした。
六
「はッはッは。若旦那《わかだんな》、そいつァ御無理《ごむり》でげすよ。おせんは名代《なだい》の親孝行《おやこうこう》、薬《くすり》を買《か》いに行《い》ったといやァ、嘘《うそ》も隠《かく》しもござんすまい。ここで逢《あ》ったが百|年目《ねんめ》と、とっ捕《つか》まえて口説《くど》こうッたって、そうは問屋《とんや》でおろしませんや。――この近所《きんじょ》の揚弓場《ようきゅうば》の姐《ねえ》さんなら知《し》らねえこと、かりにもお前《まえ》さん、江戸《えど》一|番《ばん》と評判《ひょうばん》のあるおせんでげすぜ。いくら若旦那《わかだんな》の御威勢《ごいせい》でも、こればッかりは、そう易々《やすやす》たァいきますまいて」
おせんを首尾《しゅび》よく逃《にが》してやった雨《あめ》の中《なか》で、桐油《とうゆ》から半分《はんぶん》顔《かお》を出《だ》した松《まつ》五|郎《ろう》は、徳太郎《とくたろう》をからかうようにこういうと、我《わ》れとわが鼻《はな》の頭《あたま》を、二三|度《ど》平手《ひらて》で引《ひ》ッこすった。
腹立《はらだ》たしさに、なかば泣《な》きたい気持《きもち》をおさえながら、松《まつ》五|郎《ろう》を睨《にら》みつけた徳太郎《とくたろう》の細《ほそ》い眉《まゆ》は、止《と》め度《ど》なくぴく
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