思《おも》い出《だ》したように、かるく雨戸《あまど》を撫《な》でて行《い》った。
四
「若旦那《わかだんな》。――もし、若旦那《わかだんな》」
「うるさいね。ちと黙《だま》ってお歩《ある》きよ」
「そう仰《おっ》しゃいますが、これを黙《だま》って居《お》りましたら、あとで若旦那《わかだんな》に、どんなお小言《こごと》を頂戴《ちょうだい》するか知《し》れませんや」
「何《な》んだッて」
「あすこを御覧《ごらん》なさいまし。ありゃァたしかに、笠森《かさもり》のおせんさんでござんしょう」
「おせんがいるッて。――ど、どこに」
薬研堀《やげんぼり》の不動様《ふどうさま》へ、心願《しんがん》があっての帰《かえ》りがけ、黒《くろ》八|丈《じょう》の襟《えり》のかかったお納戸茶《なんどちゃ》の半合羽《はんがっぱ》に奴蛇《やっこじゃ》の目《め》を宗《そう》十|郎《ろう》好《ごの》みに差《さ》して、中小僧《ちゅうこぞう》の市松《いちまつ》を供《とも》につれた、紙問屋《かみどんや》橘屋《たちばなや》の若旦那《わかだんな》徳太郎《とくたろう》の眼《め》は、上《うわ》ずッたように雨《あめ》の中《なか》を見詰《みつ》めた。
「あすこでござんすよ。あの筆屋《ふでや》の前《まえ》から両替《りょうがえ》の看板《かんばん》の下《した》を通《とお》ってゆく、あの頭巾《ずきん》をかぶった後姿《うしろすがた》。――」
「うむ。ちょいとお前《まえ》、急《いそ》いで行《い》って、見届《みとど》けといで」
「かしこまりました」
頭《あたま》のてっぺんまで、汚泥《はね》の揚《あ》がるのもお構《かま》いなく、横《よこ》ッ飛《と》びに飛《と》び出《だ》した市松《いちまつ》には、雨《あめ》なんぞ、芝居《しばい》で使《つか》う紙《かみ》の雪《ゆき》ほどにも感《かん》じられなかったのであろう。七八|間先《けんさき》を小《こ》きざみに往《い》く渋蛇《しぶじゃ》の目《め》の横《よこ》を、一|文字《もんじ》に駆脱《かけぬ》けたのも束《つか》の間《ま》、やがて踵《くびす》を返《かえ》すと、鬼《おに》の首《くび》でも取《と》ったように、喜《よろこ》び勇《いさ》んで駆《か》け戻《もど》った。
「どうした」
「この二つの眼《め》で睨《にら》んだ通《とお》り、おせんさんに違《ちが》いござんせん」
「これこれ、何《な》んでそ
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