の、由斎《ゆうさい》の仕事場《しごとば》を訪《おとず》れたおせんの胸《むね》には、しとど降《ふ》る雨《あめ》よりしげき思《おも》いがあった。
年《とし》からいえば五つの違《ちが》いはあったものの、おなじ王子《おうじ》で生《うま》れた幼《おさな》なじみの菊之丞《きくのじょう》とは、けし[#「けし」に傍点]奴《やっこ》の時分《じぶん》から、人《ひと》もうらやむ仲好《なかよ》しにて、ままごと遊《あそ》びの夫婦《めおと》にも、吉《きち》ちゃんはあたいの旦那《だんな》、おせんちゃんはおいらのお上《かみ》さんだよと、度重《たびかさ》なる文句《もんく》はいつか遊《あそ》び仲間《なかま》に知《し》れ渡《わた》って、自分《じぶん》の口《くち》からいわずとも、二人《ふたり》は真《す》ぐさま夫婦《ふうふ》にならべられるのが却《かえっ》てきまり悪《わる》く、時《とき》にはわざと背中合《せなかあわ》せにすわる場合《ばあい》もままあったが、さて、吉次《きちじ》はやがて舞台《ぶたい》に出《で》て、子役《こやく》としての評判《ひょうばん》が次第《しだい》に高《たか》くなった時分《じぶん》から、王子《おうじ》を去《さ》った互《たがい》の親《おや》が、芳町《よしちょう》と蔵前《くらまえ》に別《わか》れ別《わか》れに住《す》むようになったばかりに、いつか会《あ》って語《かた》る日《ひ》もなく二|年《ねん》は三|年《ねん》三|年《ねん》は五|年《ねん》と、速《はや》くも月日《つきひ》は流《なが》れ流《なが》れて、辻番付《つじばんづけ》の組合《くみあわ》せに、振袖姿《ふりそですがた》の生々《いきいき》しさは見《み》るにしても、吉《きち》ちゃんおせんちゃんと、呼《よ》び交《か》わす機《おり》はまったくないままに、過《す》ぎてしまったのであった。
女形《おやま》といえば、中村《なかむら》富《とみ》十|郎《ろう》をはじめ、芳沢《よしざわ》あやめにしろ、中村《なかむら》喜代《きよ》三|郎《ろう》にしろ、または中村粂太郎《なかむらくめたろう》にしろ、中村松江《なかむらしょうこう》にしろ、十|人《にん》いれば十|人《にん》がいずれもそろって上方下《かみがたくだ》りの人達《ひとたち》である中《なか》に、たった一人《ひとり》、江戸《えど》で生《うま》れて江戸《えど》で育《そだ》った吉次《きちじ》が、他《ほか》の女形《お
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