しゃァお前《まえ》さんから、この人形《にんぎょう》を請合《うけあ》う時《とき》、どんな約束《やくそく》をしたかはっきり覚《おぼ》えていなさろう。――のうおせんちゃん。あの時《とき》お前《まえ》は何《な》んといいなすった。あたしゃ死《し》んでる人形《にんぎょう》は欲《ほ》しくない。生《い》きた、魂《たましい》のこもった人形《にんぎょう》をこさえておくんなさるなら、どんな辛抱《しんぼう》でもすると、あれ程《ほど》堅《かた》く約束《やくそく》をしたじゃァねえか。――江戸《えど》一|番《ばん》の女形《おやま》、瀬川菊之丞《せがわきくのじょう》の生人形《いきにんぎょう》を、舞台《ぶたい》のままに彫《ほ》ろうッてんだ。なまやさしい業《わざ》じゃァねえなァ知《し》れている。あっしもきょうまで、これぞと思《おも》った人形《にんぎょう》を、七つや十はこさえて来《き》たが、これさえ仕上《しあ》げりゃ、死《し》んでもいいと思《おも》った程《ほど》、精魂《せいこん》を打《うち》込《こ》んだ作《さく》はしたこたァなかった。だが、今度《こんど》の仕事《しごと》ばかりァそうじゃァねえ。この生人形《いきにんぎょう》さえ仕上《しあ》げたら、たとえあすが日《ひ》、血《ち》へど[#「へど」に傍点]を吐《は》いてたおれても、決《けっ》して未練《みれん》はねえと、覚悟《かくご》をきめての真剣勝負《しんけんしょうぶ》だ。――お前《まえ》さんが、どこまで出来《でき》たか見《み》たいという。その心持《こころもち》ァ、腹《はら》の底《そこ》から察《さっ》してるが、ならねえ、あっしゃァ、いま、人形《にんぎょう》を塗《ぬ》ってるんじゃァねえ。おのが魂《たましい》を血《ち》みどろにして、死《し》ぬか生《い》きるかの、仕事《しごと》をしてるんだからの」
 由斎《ゆうさい》の声《こえ》を聞《き》きながら、ひと足《あし》ずつ後《あと》ずさりしていたおせんは、いつか磔《はりつけ》にされたように、雨戸《あまど》の際《きわ》へ立《た》ちすくんでいた。

    三

 ひと目《め》でいい、ひと目《め》でいいから会《あ》いたいとの、切《せつ》なる思《おも》いの耐《た》え難《がた》く、わざと両国橋《りょうごくばし》の近《ちか》くで駕籠《かご》を捨《す》てて、頭巾《ずきん》に人目《ひとめ》を避《さ》けながら、この質屋《しちや》の裏《うら》
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