《あお》ぐ、団扇《うちわ》の音《おと》が聞《きこ》えていた。
 その団扇《うちわ》の音《おと》を、じりじりと妙《みょう》にいら立《だ》つ耳《みみ》で聞《き》きながら、由斎《ゆうさい》は前《まえ》に立《た》てかけている、等身大《とうしんだい》に近《ちか》い女《おんな》の人形《にんぎょう》を、睨《にら》めるように眺《なが》めていたが、ふと何《なに》か思《おも》い出《だ》したのであろう。あたり憚《はばか》らぬ声《こえ》で勝手元《かってもと》へ向《むか》って叫《さけ》んだ。
「坊主《ぼうず》。坊主《ぼうず》」
「へえ」
「おめえ、今朝《けさ》面《つら》を洗《あら》ったか」
「へえ」
「嘘《うそ》をつけ。面《つら》を洗《あら》った奴《やつ》が、そんな粗相《そそう》をするはずァなかろう。ここへ来《き》て、よく人形《にんぎょう》の足《あし》を見《み》ねえ。甲《こう》に、こんなに蝋《ろう》が垂《た》れているじゃねえか」
 恐《おそ》る恐《おそ》る仕事場《しごとば》へ戻《もど》った。坊主《ぼうず》の足《あし》はふるえていた。
「こいつァおめえの仕事《しごと》だな」
「知《し》りません」
「知《し》らねえことがあるもんか。ゆうべ遅《おそ》く仕事場《しごとば》へ蝋燭《ろうそく》を持《も》って這入《はい》って来《き》たなァ、おめえより外《ほか》にねえ筈《はず》だぜ。こいつァただの人形《にんぎょう》じゃねえ。菊之丞《きくのじょう》さんの魂《たましい》までも彫《ほ》り込《こ》もうという人形《にんぎょう》だ。粗相《そそう》があっちゃァならねえと、あれ程《ほど》いっておいたじゃねえか」

    二

 廂《ひさし》の深《ふか》さがおいかぶさって、雨《あめ》に煙《けむ》った家《いえ》の中《なか》は、蔵《くら》のように手許《てもと》が暗《くら》く、まだ漸《ようや》く石町《こくちょう》の八つの鐘《かね》を聞《き》いたばかりだというのに、あたりは行燈《あんどん》がほしいくらい、鼠色《ねずみいろ》にぼけていた。
 軒《のき》の樋《とい》はここ十|年《ねん》の間《あいだ》、一|度《ど》も換《か》えたことがないのであろう。竹《たけ》の節々《ふしぶし》に青苔《あおこけ》が盛《も》り上《あが》って、その破《わ》れ目《め》から落《お》ちる雨水《あまみず》が砂時計《すなどけい》の砂《すな》が目《め》もりを落《お》ちる
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