て約一時間後、帰ってきて愕然とした。箪笥《たんす》の中から、桂子と私と、私の友人から預った衣類数十点、それに現金五千円ばかり盗まれている。時間は丁度、薄暗闇迫る頃、風呂敷でしょい、私のオリンピック記念のトランクを右手にぶらさげ、うまうま持出したものらしい。私は衣類に執着があまりないしロクなものもなかったから、最大の被害者はアストラカンのオーバーまで盗まれた桂子だし、次に気の毒なのは、事情があって家を追われ、荷物を預けていった私の不幸な友人だった。そして、その後、桂子は帰宅せず、翌日の午後、帰ってきて大騒ぎになり、私を迎えるため、オジさんを郊外の長兄の家まで走らせたものという。
嫉妬深《しっとぶか》い私には、その桂子外泊という一事が、前の三日外泊と相まって、いちばん胸にこたえた。私は二度、桂子の家を出たいちばんの理由を、そのことにしているのだから、もし桂子が正《まさ》しく私に愛情があれば、そうした事件を機会にして、私のほうに来てくれればよいと思った。勿論、彼女の身体に被害でもあれば、私は気違いみたいになって飛んでいったろう。けれども、衣類を取られただけということ、私も締切間近な仕事に追われているということが、(ゆっくりお話したいから、こちらに来てください)という手紙を書かせ、私はそれをオジさんに渡した。
ボツボツ家政婦に出だした妻がまだ一張羅の晴着を質屋から出してないのを私は知っている。それでも私には、桂子の盗難のほうが気になり、ゆっくり相談したい気持になるのだった。なんという不道徳漢と誰に罵《のの》しられても仕方がない。その日、姉の家に移転してから、初めて、二つの雑誌社から、小説註文の編集者がみえた。私は旧臘《きゅうろう》からのゴタゴタで、満足な仕事もせず、世の中から忘れられたと僻《ひが》んでいたときだけに、その客たちが嬉しく、桂子が二時間経っても、まだ来ない気持の苛立《いらだ》ちも紛らすことができた。
黄昏《たそがれ》、例によってアドルムと人が恋しくなる頃、私は台所の姉に薬を貰いにゆき、その時、新宿の桂子を見舞にゆきたいと言いだした。姉はそれを止めはしなかった。しかし、私がああいう手紙を書いて、桂子がやってこないのには他に理由もあろう。更に、翌日、私の老母が見舞にゆくことになっているから、お見舞はそれからでもいいだろうと言った。私も気づけば、すでに桂子は勤め
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