》いて――)という、おけさの一節が、頭に浮《うか》びました。(泣いていながら主《ぬし》のこと)なにか訴《うった》えるものが欲しかった。自然《ネイチュア》よ! と眼をあげた刹那《せつな》、映じた風景は、むろん異国的ではありながら、その癖《くせ》、未生《みしょう》前とでもいいますか、どこかで一回は眺《なが》めたことがあるという感懐《かんかい》が、肉体を痺《しび》れさせるほど、強くおそいました。
みよ、この時、髣髴《ほうふつ》と迫《せま》ってくるものは、水天青一色、からりと晴れ、さわやかに碧い、みじんも湿《しめ》りッ気を含《ふく》まぬ、おおらかな空気のなかに、真ッ白い国が浮びあがってくる。夢《ゆめ》のような美しさだ。夢がこれほど実感を伴《ともな》って、みえたことはないというのは、オリムピックを通じての感想ではありましたが、それをこの時ほど、如実《にょじつ》に感じたことはありません。
白い国! 蜃気楼《ミュアジュ》もかくや、――など陳腐《ちんぷ》な形容ですが、事実、ぼくは蜃気楼《ミュアジュ》をみた想いでした。背後には、青空をくっきりと劃《かく》した、峰々《みねみね》の紫紺《しこん》の山肌《やまはだ》、手前には、油のようにとろりと静かな港の水、その間に、整然とたち並んだ、白いビルディング、ビルディング、ビルディング。それがいかにも、摩天楼《スカイスクレエパア》という名にふさわしく、空も山も、為《ため》にちいさくみえる豪華《ごうか》さです。その頭上に、七月の太陽が、カアッと一面に反射して、すべては絢爛《けんらん》と光り輝《かがや》き、明るさと眩《まぶ》しさに息づいているのです。ぼく達の大洋丸は、悠々《ゆうゆう》と、海を圧して、碇泊中《ていはくちゅう》の汽船、軍艦《ぐんかん》の間を縫《ぬ》い、白い鴎に守られつつ、進んで行きます。
しかし、実のところ、ぼくは鴎も船も港も山も、なに一つ覚えてはおりません。只《ただ》、青い海に浮んだ白い大都市が、燦然《さんぜん》と、迫ってきた、あの感じが、いつもぼくに、ある永劫《えいごう》のものへの旅を誘います。金門湾、桑港《サンフランシスコ》! と、ぼくは、昔《むかし》なつかしい名を口にして、そのときも、今、聞かされている意見より、もっと、悠久なものについて考えていました。清さんも、同じ種類の感動に襲《おそ》われたのか、ぼくに、「ほら、もう桑港《サンフランシスコ》じゃないか。元気をだしなよ」と肩を叩いて話を打ちきり、二人はしばし、唇《くちびる》を噤《つぐ》み、じっと、この新しい大陸をみつめていました。
十三
税関の検査も、愛想の好《よ》い税関吏達の笑いの中に済んで、上陸したぼく達の前には、ただ WELCOME の旗の波と、群集の歓呼《かんこ》の声が充《み》ち満ちていました。市長さんから、大きな金の鍵《ゴオルデンキイ》[#「金の鍵」にルビ]を頂くまでの市中行進も、夢《ゆめ》のような眩惑《げんわく》さに溢《あふ》れたものでしたが、そのうち、忘れられぬ一つの現実的な風景がありました。
桑港《フリスコ》の日当りの好い丘《おか》の下に、ぼく達を迎《むか》えて熱狂《ねっきょう》する邦人《ほうじん》の一群があり、その中に、一人ぽつねんと、佇《たたず》んでいる男がいた。潰《つぶ》れた鼻に、歪《いび》つな耳、一目でボクサアと判《わか》る、その男は、あまりにも、みすぼらしい風体《ふうてい》と、うつろな瞳《ひとみ》をしていました。
一行中の朴拳闘《ぼくけんとう》選手が、この男をみるなり、「金徳一だ!」と叫《さけ》び、駆《か》けよって手を握《にぎ》っていましたが、その男の表情は、依然《いぜん》、白痴《はくち》に近いものでした。金徳一は、知る人ぞ知る、先のバンタム級の世界ベストテンに数えられた名選手でした。リングでの負傷が祟《たた》って落ち目が続き、帰国の旅費もないとやら。ぼくは、絢爛《けんらん》たる、あの行進の最中、彼《かれ》の幻《まぼろし》が、暗示するものを、打消すことが出来なかったのです。
桑港《フリスコ》の夜、船から降りたった波止場の端《はず》れに、ガアドがあって、その上に、冷たく懸《かか》っていた、小さく、まん円《まる》い月も忘れられません。斜《なな》め下には、教会堂の尖塔《せんとう》も鋭《するど》く、空に、つき刺《さ》さって、この通俗的な抒情画《じょじょうが》を、更《さら》に、完璧《かんぺき》なものにしていました。
月の色が、どこで、どんなときにみても、変らないというのは、人間にとって、甚《はなは》だもの悲しいことです。
黄色《イエロオ》タクシイの運転手に、インチキ英語《ブロオクンイングリッシュ》[#「インチキ英語」にルビ]を使って、とんでもない支那街《シナがい》に、連れこまれたことも、市場通り《マアケットストリイト》[#「市場通り」にルビ]で、一本五十|仙也《セントなり》の赤ネクタイを買ったことも、今は懐《なつか》しい思い出のひとつです。
しかし、その夜、フォックス劇場《シアタア》できいた『君が代』の荘厳《そうごん》さは、なお耳底にのこる、深刻なものがありました。シュウマンハインクとかいう、とても肥《ふと》ったお婆《ばあ》さんで、世界的な歌手が、我々が入場して行くと、日の丸の旗と、星条旗を両手に持ち、歌ってくれたのです。満場の視線が、明るいライトを浴びた我々に集まり、むずかゆい様な面映《おもは》ゆさでした。が、その明るい光線を横ぎって、身体《からだ》をすぼめ、腰《こし》を降ろした、あなたの黒い影が、焼きつくように、ぼくの網膜《もうまく》に残っていました。あなたは、随分《ずいぶん》、窶《やつ》れていた。
翌日、南加《サウスカルホルニア》大学で、艇《てい》を借りられるとのことで、練習に行きました。金門湾を廻《まわ》って、オオクランドに出て、一路|坦々《たんたん》、沿道の風光は明媚《めいび》そのものでした。鵞鳥《がちょう》が遊ぶ碧《あお》い湖、羊《ひつじ》の群れる緑の草原、赤い屋根、白い家々。大学もそんなユウトピアの中にあります。
艇を借りるとき、世話を焼いてくれた、親切な南加大学の補欠漕手《サブそうしゅ》の上背も、六尺八寸はあり、驚《おどろ》かされたことでした。
練習コオスは流れる淀《よど》み、オォルがねばる、気持よさです。久し振《ぶ》りに、はりきった、清さんの号令で、艇は船台《ランディング》を離《はな》れ、下流に向いました。
と、突然《とつぜん》、漕《こ》ぎすぎようとする橋の上に、群れていた観衆が、なつかしい母国語で、「万歳《ばんざい》」を叫んでくれます。みれば、顔の黄色い、日本人ばかり。おおかた、聞き伝えて、近在から寄り集まった移民のお百姓達《ひゃくしょうたち》でありましょう。質素な服装《ふくそう》、日に焼けた顔、その熱狂ぶりも烈《はげ》しくて、彼等の朴訥《ぼくとつ》な歓迎には、心打たれるものがありました。
ぼくは、愈々《いよいよ》、あなたを忘れねば、と繰返《くりかえ》し、オォルに力を入れて、スライドを蹴《け》っていたときです。前のシイトの松山さんが、「止《や》めい、止めろ」と叫びざま、オォルを投げだすや、振返って、ぼくを睨《ね》めつけ、「貴様、一人で、バランスを毀《こわ》していやがる。そんなに女が気になるか」ぼくには一言もない怒罵《どば》でした。森さんがまた、「大坂《ダイハン》、貴様これからあの女と口を利《き》くな。顔もみるな。少しは考えろ」と喙《くちばし》を入れるのに松山さんが続けて、「貴様の為《ため》にクルウの調子が狂《くる》って、もし、負けたら、手足の折れるまで、撲《なぐ》りたおすから、そう思え」それから、なんと叱《しか》られたか忘れました。ただ、河口に並《なら》んだ蒸汽船の林立する煙突《えんとつ》から、吐《は》く煙《けむり》が、濛々《もうもう》と、夕焼け空を暗くしていたのを、なんとなく憶《おぼ》えています。
翌日、スタンフォド大学に、全米陸上競技大会を、見学に行きました。
熊《くま》や鹿《しか》が棲《す》むという、幽邃《ゆうすい》な金門公園を抜《ぬ》けて、乗っていたロオルスロオイスが、時速九十|粁《キロ》で一時間とばしても変化のないような、青草と、羊群のつづく、幾《いく》つもの大牧場を通って――途中《とちゅう》でだいぶ自動車を停《と》めた露骨《ろこつ》なランデェブウにもお目にかかりました。――厭《いや》だった。――そしてスタンフォドに着いたら、大学の森中、数千台の自動車で埋《うま》っている人出でした。
スタンドで、あなたの水色のベレエ帽《ぼう》が、眼の前にあった。それだけを憶えています。競技はろくに憶えていません。ただ、赤いユニホォムを着た、でぶの爺《じい》さんが、米国一流のハムマア投げ、と、きかされ、もの珍《めずら》しく、眺《なが》めていたのだけ記憶《きおく》にあります。
そのうち、隣席《りんせき》にいた、副監督《ふくかんとく》のM氏が、ぼくに、御愛用《ごあいよう》の時価千円ほどのコダックを渡《わた》して便所に行ったそうです。そうです、というのは、それほど、その時のぼくの頭には、あなたの水色のベレエが、いっぱいに詰《つま》っていたのです。あなたの盗《ぬす》み見た横顔は、苦悩《くのう》と疲労《ひろう》のあとが、ありありとしていて、いかにも醜《みにく》く、ぼくは眼を塞《ふさ》ぎたい想いでした。
船に帰って、ピンポンをしていると、M氏が来て「坂本君、コダックは」と訊《き》きます。愕然《がくぜん》、ぼくは脳天を金槌《かなづち》でなぐられた気がしました。預かった憶えは、ないと言えばよかったのですが、言われた途端《とたん》、ハッとしたものがあって、――卑劣《ひれつ》なぼくは、「村川君に、じゃなかったのですか」と苦し紛《まぎ》れに嘘《うそ》を吐《つ》きました。M氏は、「そうだったかな」と気軽く言い、小首を捻《ひね》りながら、村川を捜《さが》しに行きましたが、ぼくは、居たたまれず、船室に駆けこみ、頭を押《おさ》えて、七転八倒《しちてんばっとう》の苦しみでした。
お金持のM氏は、誰に預けたかを、そのまま追求もせず、諦《あきら》めておられたようですが、ぼくは良心の苛責《かしゃく》に、堪《た》えられず、あなたへの愛情へ、ある影を、ずっと落すようになりだしました。
それから、ぼくの眼は、あなたを追わなくなりました。しかし、心は。
十四
ロスアンゼルスヘの外港、サンピイドロの海は、巨艦《きょかん》サラトガ、ミシシッピイ等の船腹を銀色に光らせ、いぶし銀のように燻《くす》んでいました。曇天《どんてん》の故《ゆえ》もあって、海も街も、重苦しい感じでした。
ぼく達《たち》は、ロングビイチの近くにある、フォオド工場の提供してくれた、V8の新車八台に分乗して、工場の見学後、ロングビイチの合宿に着きました。
日本人のコックさんが、広島弁丸出しの奥《おく》さんと一緒《いっしょ》に、すぐ、久し振《ぶ》りの味噌汁《みそしる》で、昼飯をくわしてくれました。娘《むすめ》の花子さんは十五|歳《さい》でしたか、豊頬黒瞳《ほうきょうこくとう》、まめまめしく、ぼく達の汚《よご》れ物の洗濯《せんたく》などしてくれる、可愛《かわい》らしさでした。
翌日、マリンスタジアムに練習始め。ぼく達よりも、近所の邦人《ほうじん》の方々が、張り切って、自家用車で、練習場まで、送って下さるやら、スタンドに陣取《じんど》って声援《せいえん》して下さるやら、それよりも騒《さわ》いでくれたのが、隣《となり》近所のメリケン・ボオイズ、ガアルズ達で、映画のアワア・ギャングもかくや、と思われる顔触《かおぶ》れが、脱衣場《だついじょう》にまで、入りこんで、パンツの世話まで、手伝ってくれるのには顔負けでした。
コオスは掘割《ほりわり》になっていて、流れは殆《ほとん》どありません。大体、二千|米《メエトル》の長さしかなく、なんども、往復して練習をしました。すでに、ブラジル、英国、独逸、カナダ等、各国の選
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