スは直ぐ、真紅《まっか》な顔になって、部屋に帰ってしまいましたが、そのときぼくがあなたを撲《なぐ》りつけたい腹立たしさで、一隅《いちぐう》から笑いもせずに睨《にら》みつけていたのを御存知ですか。
ぼくはあなたへの愛情に、肉体を考えたことがないと前にも書きました。帰朝してから随分《ずいぶん》色んな歓迎会も催《もよお》して頂き、酔ったあとで友達同士、女遊びをする機会も多かったのですが、ぼくはどんな場合でも、芸者なり商売女に、「ぼくにはだいじな女《ひと》がいるから、悪いけれど気にしないで」とまともな顔で断って、指一本、彼女達《かのじょたち》に触れたことはありませんでした。
帰って暫《しばら》くして、銀座のシャ・ノアルにクルウが揃《そろ》って行ったことがあります。初めに書いた、嘗《かつ》てぼくの童貞《どうてい》とやらに興味を持ったN子という女給もいれば、松山さんも沢村さんの女達もいるカフエでした。ぼく達が入って行くと、マスタアが挨拶に来るは、女給が総出で取り巻くは、大変なものでした。
ぼくはその頃《ころ》むやみに酒を飲むようになっていましたから、一人でがぶがぶと煽《あお》り、手近に坐《すわ》っていた京人形みたいな女給をちょっと好きになって、「君の名前は」とか訊いているうち、いきなり背後から生温かい腕《うで》がペたっと頸《くび》のまわりに巻きつきました。振返《ふりかえ》ると熱柿《じゅくし》みたいな臭《にお》いをぷんぷんさせたN子です。「聞いたわよ、坂本さん、船のなかで女のひとと凄《すご》かったんですッてねエ」「ああ」とぼくは素直です。「こんなお婆《ばあ》ちゃんじゃ、嫌《きら》い」とN子はぼくの頸にぶら下がったまま、ぼくの膝《ひざ》に坐り、白粉《おしろい》と紅の顔をぼくの胸におしつけます。
実をいうとぼくは肉体の快感もあって、こういう酩酊《めいてい》の為方《しかた》も好《い》いなあ、と思いかけていましたが、便所に立った虎《とら》さんが帰って来て、「オイ表に出てみろよ、大変な貼出《はりだ》しが出ているぜ、ハッハッハ」と豪傑《ごうけつ》笑いをするので、清さんと一緒に出てみますと、入口に立てかけた大看板に(只今オリムピックボオト選手一同御来店中)と墨痕《ぼっこん》鮮《あざ》やかに書いてあります。
しばらく唖然《あぜん》と突っ立っていたぼくは、折から身体を押《お》して行く銀座の人混《ひとご》みに揉《もま》れ、段々、酔いが覚めて白々しい気持になるのでした。もうそのまま、帰りたくもなりましたが、皆で来ているのでそれもならず、再び店内に入ると、もはや、ほろ苦くなった酒を呻《あお》るのも止《や》めてしまった。間もなく、マスタアが出て来て、「お写真をとらせて下さい」という。酔払った連中は、二つ返事で銘々《めいめい》美女を相擁《あいよう》し、威勢《いせい》よくシャムパングラスを左手に捧《ささ》げ立った処《ところ》を、ポッカアンとマグネシュウムが弾《はじ》けて一同、写真に撮られてしまいました。
所詮《しょせん》、だらしのないぼくが、そんなにも女色が嫌《きら》いだったというのは偏《ひと》えに、あなたからの手紙の御返事を待っていたからです。
県人会でお逢いした翌日、ぼくは横浜へ着いた日に撮ったあなたの写真を、すぐあなたの寄宿舎のほうへ送っておきました。勿論《もちろん》、あなたの御迷惑《ごめいわく》を考え、あっさりした御手紙を添《そ》えておいたのですが、きっと返事が来るだろうと信じていました。返事が来れば、それからお付合をして、或《ある》いは結婚が出来るかとも思っていました。
ぼくはその夏、鎌倉《かまくら》の家へ行っていました。
毎日、夕暮《ゆうぐれ》になるとあなたからの手紙が廻送《かいそう》されているような気がして、姉の子をおぶい、散歩に出た浜辺《はまべ》から、祈《いの》るような気持で、姉の家に帰って行ったものです。
相模《さがみ》の海の夕焼け空も、太平洋の夕照とかわりありません。到頭《とうとう》あなたの手紙は来なかった。
それから間もなく、ぼくは兄の指導下に、学内のR・Sを手始めとして、段々本格的な左翼《さよく》運動へと走って行きました。続いて学内サアクルの検挙、一人の母を棄《す》てて地下へ、工場へ。ストライキから掴《つか》まって転向、というヤンガアジェネレェション一通りの経過をへたぼくが、狂熱《きょうねつ》的な文学青年になったのは、オリムピックの翌々年の春でした。
なにより先に、あなたとの思い出が書きたく、すでに書き溜《だ》めの原稿紙《げんこうし》も五六十枚になった頃、偶然《ぐうぜん》、新宿の一食堂で、中村さんに逢いました。
暫く見ないうちにすっかり大人になった、来年はまた伯林《ベルリン》に行けると張切っていた中村さんから、先《ま》ず、あなたが中国辺の女学校で、体操の先生をしているとの話を聞きました。同時に、内田さんが有名なスポオツマンの某氏と、恋愛《れんあい》結婚をしたとの話を聞きました。
そのときの衝動《しょうどう》は強く、帰ってから直ぐ書きかけの原稿紙を全部、破ってしまいました。こんな興奮するようでは、未《ま》だとても書けないと諦《あきら》めたからです。
次の年、徴兵《ちょうへい》検査で、本籍《ほんせき》のある高知県に帰ったとき、特殊《とくしゅ》飲食店を開いている伯父《おじ》さんから商売|柄《がら》の廃娼《はいしょう》反対演説を聞いたあと、こっちも一杯|機嫌《きげん》で、あなたの話をほのめかすと、伯父さんは、「熊本秋子さんなら直ぐ、隣町《となりまち》の床屋の娘《むすめ》さんじゃきに、伯父さんもよう知っとるし、本当におまはんがその気なら、じき話を決めるがのうし」と大乗気になられ、却《かえ》って此方《こちら》が辟易《へきえき》しました。
それよりも去年の暮、出征《しゅっせい》していた頃、北京《ペキン》郊外《こうがい》豊台駅前のカフェに入った処が、高知県出身の女給さんばかりが多くいて、あなたの噂《うわさ》が、偶然オリムピックの話から出たのには驚きました。あなたと同じ女学校で三年下だったという其処《そこ》のある女給さんは、なかなか色白|細面《はそおもて》の美人でしたが、あなたのことを「とてもすらりとした可愛《かわい》いお方でしたわ」とお世辞を言っていました。
そうして、ぼく達のグルウプの人々は――。
帰朝して間もなくインタアカレッジで漕《こ》がされたエキジビジョンの風景を想い出します。
真紅《しんく》のオォルに真紅のシャツ。みんな出立《いでた》ちは甲斐々々《かいがい》しく、ラウドスピイカアも、「これより、オリムピック・クルウの独漕《どくそう》があります」と華々《はなばな》しく放送してくれたのでしたが、橄欖《かんらん》の翠《みど》りしたたるオリムピアがすでに昔《むかし》に過ぎ去ってしまった証拠《しょうこ》には、みんなの面に、身体に、帰ってからの遊蕩《ゆうとう》、不節制のあとが歴々と刻まれ、曇《くも》り空、どんより濁《にご》った隅田川《すみだがわ》を、艇《てい》は揺《ゆ》れるしオォルは揃わぬし、外から見た目には綺麗《きれい》でも、ぼくには早や、落莫《らくばく》蕭条《しょうじょう》の秋となったものが感ぜられました。
そうして二三年|経《た》ってから。
『若き君の多幸を祈る』と啄木歌集の余白に書いてくれた美少年上原が、女に身を持ち崩《くず》し、下関の旅館で自殺をしたときいた。銀座ボオイの綽名《あだな》があった村川が、お妾《めかけ》上がりのダンサアと心中して一人だけ生残ったとの噂もきいた。
沢村さんは満洲《まんしゅう》へ、松山さんはジャワヘ、森さんは北支《ほくし》、七番の坂本さんはアラスカヘと皆どこかへ行ってしまった。
東海さんは昨年、戦地で逢いました。補欠《サブ》の佐藤は戦死したと聞きました。
戦地で、覚悟《かくご》を決めた月光も明るい晩のこと、ふっと、あなたへ手紙を書きましたが、やはり返事は来ませんでした。
あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか。
底本:「オリンポスの果実」新潮文庫、新潮社
1951(昭和26)年9月30日発行
1991(平成3)年11月30日52刷改版
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野晋
校正:伊藤時也
2000年2月7日公開
2001年1月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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