まで、草の根を押《お》しわけて探してみましたが、処々に遺《のこ》っているコカコラの空瓶《あきびん》、チュウインガムの食滓《たべかす》などのほかには、水滴をつづった青草が、どこまでも意地悪く、羅列《られつ》しているばかりです。
 大体、前の日、歩いた記憶《きおく》を辿《たど》り、さがしてみたのですが、一通り歩いても、どうしてもありません。リンキイ君が、五|仙《セント》玉をひとつ拾っただけで、「チェッ」と舌打ち諸共《もろとも》、銀貨を空に抛《ほう》りあげ、意気なスタイルをみせてくれただけの事でした。
 歩きつかれ、探しつかれて、帰ってくると、みんな朝飯を食いに食堂に行った後のがらんとした寝室《しんしつ》を、コックの小母《おば》さんが、掃除《そうじ》していましたが、ぼくをみるなり「坂本さん。これあんたんじゃろう。随分《ずいぶん》、あんたを探していたのよ」と差出してくれたのは、失《な》くしたとばかり、思っていた蟇口です。ぼくのベッドの下に落ちていたそうで、この様子をぼくについて来て、ぼんやりみていた Mr. Lincoln いきなりぼくの手を握《にぎ》りしめ「ありがと。ありがと」と打振ります。ぼくには、少年の親切が、身に染《し》みて嬉《うれ》しかった。
 これは後の話ですが、ぼく達が帰国する日も迫った頃《ころ》、ぼくは日本への土産《みやげ》に、自動車のナムバア・プレェトが欲《ほ》しく、それをこのリンキイに頼《たの》みますと、その日、子供に借りた自転車で、附近《ふきん》を乗り廻《まわ》していたぼくの瞳に、道路の真中で、五六人の少年少女が集まり、リンキイが先に立って、なに事か、一心不乱に、働いているのがみえました。
 近よってみると、まだ新しいナムバア・プレェトが、アスファルト路の欠けた処を塞《ふさ》ぐために釘《くぎ》づけにしてあるのを、子供達が、各自家から持出した、金槌《かなづち》、やっとこの類で、取りはずすのに、大童《おおわらわ》でした。勿論、警官にみつかれば、叱《しか》られるのでしょうが、このアワア・ギャング達は、おめず臆《おく》せず、堂々と取ってのけ、その場で、ぼくにくれるのでした。
 また、帰国が近づいた頃、うす汚い、真鍮《しんちゅう》のロケットをぼくにくれた、カアペンタアという八つ位のお嬢さんも、ぼくと仲が善《よ》く、再々、彼女の宅にも引張って行かれました。その娘《むすめ》のお母さんは、すこし眼に険のある美人でしたが、恐《おそろ》しく早口で捲舌《まきじた》に喋《しゃべ》るので、なにを言うやら、さっぱり判《わか》らず、いつもぼくは面喰《めんくら》いました。帰国のとき、ぼくは、この少女に、持って行った浴衣《カルナモク》を、一枚上げたところ、早速、その別嬪《べっぴん》のお母さんが着て、見送りに出ていたのには、苦笑させられたものです。

     十六

 練習が終り、みんな、素《す》ッ裸《ぱだか》で、シャワルウムに飛びこみ、頭から、ザアザアお湯を浴びているうち、一人が、当時の流行歌(マドロスの恋《こい》)を※[#二重かっこ開く]赤い夕陽《ゆうひ》の海に、歌うは、恋のうウた※[#二重かっこ閉じ]と歌いだし、皆《みんな》で、賑《にぎ》やかに合唱していると、直《す》ぐ隣《となり》の部屋から、太いバスの仏蘭西《フランス》語が※[#二重かっこ開く]セネ、カル、シャントプウ、アキタルポウ※[#二重かっこ閉じ]と同じ歌を、突然《とつぜん》、謡《うた》いだしたのには、驚《おどろ》きもしましたが、嬉《うれ》しくもなって、皆|一緒《いっしょ》に、両国語の合唱が始まったのでした。
 それは、仏蘭西の選手達でしたが、他《ほか》に、独逸《ドイツ》の選手達も、ずいぶん気持の好い連中で、ぼく達と顔を合せるたびに、直ぐ「オハヨオ」と愛嬌《あいきょう》たっぷりに、日本語で挨拶《あいさつ》してくれます。それが、朝、昼、夕方おかまいなしなのも嬉しく、ぼく達も「グウテンモルゲン」で一日中、間に合せます。
 伊太利《イタリイ》の選手達は、みんな、船乗り上がりかなにからしく、腕《うで》や肩《かた》に刺青《いれずみ》をみせていましたが、人柄《ひとがら》は、たいへん、あっさりしていて気持よく、いつぞやぼくと東海さんと連れだって、彼等《かれら》が女の子達《ヤンキイガアルズ》[#「女の子達」にルビ]と遊んでいる芝生《しばふ》を通りかかると、「ヘエイ、ボオイズ」とか、変なアクセントの英語で呼びとめ、ぼく達と肩《かた》を組み、写真を撮《と》ってくれました。連中のうちで、コオルマン髭《ひげ》を生した色男《ハンサムボオイ》が真中になり、アメリカ娘《むすめ》が、両脇《りょうわき》で、カメラに入りましたが、あとで出来上がったのをみたら、ぼくの鼻がずいぶん低く、厭《いや》だった。
 しかし、この人達も、短い練習の時間だけは、非常に真摯《しんし》に、熱心で、漕法《そうほう》は、英国の剣橋《ケンブリッジ》大学を除《のぞ》いては、皆、レカバリイが少ないのが、目につきました。日本流の漕法では、※[#二重かっこ開く]ボオトは気で漕《こ》げ腹で漕げ※[#二重かっこ閉じ]というのですが、彼等は腕と脚《あし》とだけで猛烈《もうれつ》に漕ぎ、ピッチも五十前後まで楽に上がる様でした。
 殊《こと》に、米国代表南加大学(金色熊《ゴオルデンベア》)クルウが、ロングビイチに姿を現わしたのは、開会式《オオプニングセレモニイ》の二三日前でしたが、彼等の漕法は、殆《ほとん》ど、体を使わないで、ぼく等よりもオォルのスペイスがあり、一糸乱れず、脚のリズムで、スタアトからゴオル迄《まで》、一貫したスパアトで持って入り、しかも、毫《ごう》も、調子が変っていないのには、感心させられました。
 どんな練習にも、全力をあげ、精も根も使い果し、ゴオルに入って「イジョオル(Easyoar)」がかかると、バタバタ倒《たお》れてしまう日本選手の猛練習振りは、彼等には、全然、非科学的にみえるようでした。(A crew of Coxswains.)とぼく達は彼地《あちら》の新聞に、一言で、かたづけられていたものです。
 総《あら》ゆる人種からなる、十三万人の観衆に包まれた開会式《オオプニングセレモニイ》は、南カルホルニアの晴れ渡《わた》った群青《ぐんじょう》の空に、数百羽の白鳩《しろばと》をはなち、その白い影《かげ》が点々と、碧玻璃《へきはり》のような空に消えて行く頃《ころ》、炎々《えんえん》と燃えあがった塔上《とうじょう》の聖火に、おなじく塔上の聖火に立った七人の喇叭手《らっぱしゅ》が、厳《おごそ》かに吹奏《すいそう》する嚠喨《りゅうりょう》たる喇叭の音、その余韻《よいん》も未だ消えない中、荘重《そうちょう》に聖歌を合唱し始めた、スタンドに立ち並《なら》ぶ三千人の白衣の合唱団、その歌声に始まって行ったのでした。
 ぼくは、その風景を、男子の本懐《ほんかい》だと、感動して、眺《なが》めていた。殊に、あの日、塔上に仰《あお》いだ万国旗のなかの、日の丸の、きわだった美しさは、幼いマルキストではあったぼくですが、にじむような美しさで、瞳《ひとみ》にのこりました。身体《からだ》がふるえる程《ほど》、それは強烈な印象でした。
 大きな声ではいえぬことです。その日、フウバア大統領の前を、颯爽《さっそう》と、分列行進をしていった女子選手達のうちに、あなたのりりしい晴れ姿をちらっと垣間見《かいまみ》ました。はるかな美しさで、ぼくは、そッと、瞼《まぶた》のうちに、蔵《しま》っておいた。

     十七

 オリムピックのなかでも、青《ブリュウ》リボンと呼ばれる、壮麗《そうれい》なレガッタのなかで、ぼくには、負けて仰《あお》いだ、南カルホルニアの無為《むい》にして青い空ほど、象徴《しょうちょう》的に思われたものはありません。

 スタアトラインに並《なら》んで「ムッシュ。エティオプレ」「パルテ」という出発の号音を聞いたときは、ただ漕《こ》いだ。並んだ、剣橋《ケンブリッジ》クルウのオォルの泡《あわ》が、スタアト・ダッシュ、力漕《りきそう》三十本の終らないうちに、段々、小さくなり、はては消えてゆく。敵の身体《からだ》がみえていたのは、本当に、スタアト、五六本の間で、忽《たちま》ち、グイグイッとなにかに引張られているような、強烈な引きで彼等《かれら》の身体は、ぼくの眼の前から、消えてゆき、あとには、山のように盛《も》りあがった白い水泡《みなわ》がくるくる廻《まわ》りながら、残っている。それも束《つか》の間《ま》、薄青《うすあお》い渦紋《かもん》にかわり、消えてしまった。しかし、ぼく達は、相手のない、不敵さで、ただ、漕いだ。
 あとで、みていた人達は、もう千|米《メエトル》あったなら、日本クルウは、英国を抜《ぬ》いていたかも知れない、と言ったそうです。それほど、ゴオルでは、へたばっていながらも、気魄《きはく》では、敵を追っていたらしい。四|艇身《ていしん》半の開きも、僅《わず》かにみえるほど、日本人の気魄は、彼等を追い詰《つ》めていたのでしょうか。ゴオル直前で、ブラジル・クルウを三艇身、打《う》っ棄《ちゃ》って、伊太利《イタリイ》に肉迫した、必死の力漕には、凄《すさ》まじいものあり、すでに、英伊二|艘《そう》とも、ゴオルに着いているだけ、外国人は、無駄《むだ》な努力に必死な、ぼく達を呆《あき》れてみていたらしい。最後のスパアト五百米では、日本のクルウは、身体の動きこそ、ちぢまれ、オォルは少しも、他のクルウに比べて、遜色《そんしょく》なかったという。しかし、ゴオルに入った途端《とたん》、ぼく達の耳朶《じだ》に響《ひび》いたピストルは、過去二年間にわたる血と涙《なみだ》と汗《あせ》の苦労が、この五分間で終った合図でもありました。
 そのときのぼく等の様子を、当時の羅府《ロスアンゼルス》新報が、こんなに報告しています。
※[#二重かっこ開く]夕刻のロングビイチは鉛色《なまりいろ》のヘイズに覆《おお》われ、競艇《レギャッタ》コオスは夏に似ぬ冷気に襲《おそ》われ、一種|凄壮《せいそう》の気|漲《みなぎ》る時、海国日本の快男児九名は真紅《しんく》のオォル持つ手に血のにじめるが如《ごと》き汗を滴《したた》らしつつ必死の奮闘《ふんとう》を続けて遂《つい》に敗れた。この日、我が稲門健児《とうもんけんじ》は不幸にも、北側の第一レインを割り当てられ、逆風と逆浪《げきろう》の最も激《はげ》しい難路を辿《たど》らねばならず、且《か》つ、長身に伍《ご》して、短躯《たんく》のクルウを連ね、天候さえ冷え勝ちで、天の利、地の利、人の利、すべて我々に幸いせず。頼《たの》むは、日本男児の気概《きがい》のみ、強豪《きょうごう》伊太利と英国を向うに廻し、スタアトからピッチを三十七に上げ、力漕、また力漕、しかも力|及《およ》ばず、千メエトルでは英国に遅《おく》れること五艇身、伊太利に遅れること三艇身、千五百メエトルに至《いた》るや、懸隔益々甚《けんかくますますはなは》だしく、英国と伊太利が二艇身半の差、日本は三艇身遅れて続き、更《さら》にブラジルが後を追う。
 が、最後の五百メエトルに日本選手は渾身《こんしん》の勇を揮《ふる》って、ピッチを四十に上げ、見る見る中に伊太利へ追い着くと見え伊太利の舵手《だしゅ》ガゼッチも大喝《だいかつ》一声、漕手を励《はげ》まし、五万の群集は熱狂《ねっきょう》的な声援《せいえん》を送ったが、時|既《すで》に遅《おそ》く、一艇身半を隔《へだ》てて伊太利は決勝線に逃《に》げ込《こ》んだ。
 決勝線突入後、他の三国選手が、余裕《よゆう》を示して、ボオトをランデングに附け、掛声《かけごえ》勇ましく、頭上高く差し上げたに引き替え、日本選手は決勝線に入ると同時に、精力全く尽き、クルウ全員ぐッたりとオォルの上に突っ俯《ぷ》し、森整調以下、殆《ほとん》ど失神の状態となり、矢野清舵手は、両手に海水をすくって戦友の背中に浴せ、比較《ひかく》的元気な松山五番もこれに手伝い、坂本四番の介抱《かいほう
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