り《マアケットストリイト》[#「市場通り」にルビ]で、一本五十|仙也《セントなり》の赤ネクタイを買ったことも、今は懐《なつか》しい思い出のひとつです。
 しかし、その夜、フォックス劇場《シアタア》できいた『君が代』の荘厳《そうごん》さは、なお耳底にのこる、深刻なものがありました。シュウマンハインクとかいう、とても肥《ふと》ったお婆《ばあ》さんで、世界的な歌手が、我々が入場して行くと、日の丸の旗と、星条旗を両手に持ち、歌ってくれたのです。満場の視線が、明るいライトを浴びた我々に集まり、むずかゆい様な面映《おもは》ゆさでした。が、その明るい光線を横ぎって、身体《からだ》をすぼめ、腰《こし》を降ろした、あなたの黒い影が、焼きつくように、ぼくの網膜《もうまく》に残っていました。あなたは、随分《ずいぶん》、窶《やつ》れていた。
 翌日、南加《サウスカルホルニア》大学で、艇《てい》を借りられるとのことで、練習に行きました。金門湾を廻《まわ》って、オオクランドに出て、一路|坦々《たんたん》、沿道の風光は明媚《めいび》そのものでした。鵞鳥《がちょう》が遊ぶ碧《あお》い湖、羊《ひつじ》の群れる緑の草原、
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