よって手を握《にぎ》っていましたが、その男の表情は、依然《いぜん》、白痴《はくち》に近いものでした。金徳一は、知る人ぞ知る、先のバンタム級の世界ベストテンに数えられた名選手でした。リングでの負傷が祟《たた》って落ち目が続き、帰国の旅費もないとやら。ぼくは、絢爛《けんらん》たる、あの行進の最中、彼《かれ》の幻《まぼろし》が、暗示するものを、打消すことが出来なかったのです。
 桑港《フリスコ》の夜、船から降りたった波止場の端《はず》れに、ガアドがあって、その上に、冷たく懸《かか》っていた、小さく、まん円《まる》い月も忘れられません。斜《なな》め下には、教会堂の尖塔《せんとう》も鋭《するど》く、空に、つき刺《さ》さって、この通俗的な抒情画《じょじょうが》を、更《さら》に、完璧《かんぺき》なものにしていました。
 月の色が、どこで、どんなときにみても、変らないというのは、人間にとって、甚《はなは》だもの悲しいことです。
 黄色《イエロオ》タクシイの運転手に、インチキ英語《ブロオクンイングリッシュ》[#「インチキ英語」にルビ]を使って、とんでもない支那街《シナがい》に、連れこまれたことも、市場通
前へ 次へ
全188ページ中94ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 英光 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング