ば、バック台を引いて、練習をしていました。ようやく静まってきた波のうねりをみながら、一望千里、涯《はて》しない大洋の碧《あお》さに、甘《あま》い少年の感傷を注いで、スライドの滑《すべ》る音をきいていたのも、忘れられぬ思い出であります。
 船が桑港《サンフランシスコ》に入る前夜、ぼくは日本を発《た》つとき、学校の先生から頼《たの》まれた、羅府《ロスアンゼルス》にいる先生の親戚《しんせき》への贈物《おくりもの》、女の着物の始末に困って、副監督《ふくかんとく》のM氏に相談しました。M氏は、それを誰か女の選手に、彼女《かのじょ》の持物として、預かって貰《もら》えと言います。浅ましい話ですが、ぼくはそれをきくと、眼の色が変るほど、興奮しました。あなたに預かって貰えたら、と思ったのです。口を利かずともどんな形にでも、あなたと繋《つな》がっているものが欲《ほ》しかった。ぼくは、その着物に潜《ひそ》ませる、恋文《こいぶみ》のことなど考えて、その夜も、また眠《ねむ》れませんでした。
 もう二時間|程《ほど》で、桑港《サンフランシスコ》に入るという午後、ぼくは、M氏から、誰という名前はきかず、その着物を預
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