的な感情は、揚棄《アウフヘエベン》せよ。それが、義務だという声もきこえる。それより、ぼくも棄《す》てたいと望んでいる。が、そう考えているときのぼくに、はや、あのひとの面影《おもかげ》がつきそっている。あのひとが、そう一緒に望んでくれる、と思うのだ。
これからのぼくは、一心に、あのひとを、どっかに蔵《しま》い込《こ》もう。日本に帰る日まで、一個人に立ち返れるまで、とこの言葉を呪文《じゅもん》として、ぼくは、もう、あのひとの片影なりとも、心に描くまい※[#二重かっこ閉じ]
そう書いた、次の日の日記に、
※[#二重かっこ開く]かにかくに杏《あんず》の味のほろ苦く、舌にのこれる初恋のこと※[#二重かっこ閉じ]
もっと、ここに書くのも気恥《きはず》かしいほど、甘《あま》ったるい文句も書いてありました。で、ぼくは大切に、一々トランクの奥底《おくそこ》にしまい込んでいたのです。
ところが、ある日の午後、例によって、ベッドから、脚《あし》をぶらんぶらんさせ、トランクを台にして日記を書いていると、いま外に出たばかりの松山さんと沢村さんが、カッタアシャツ一枚で、ぬッと入って来ました。
ぼくは、あ
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