言いきかせて、頑張《がんば》ったものです。
 それでいながら、例《たと》えば、舷側《げんそく》に沸《わ》きあがり、渦巻《うずま》き、泡だっては消えてゆく、太平洋の水の透《す》き徹《とお》る淡青さに、生命も要《い》らぬ、と思う、はかない気持もあった。
 船室では、同室の沢村さん松山さんが、いないときが多かったので、いつでも、自分の上段の寝室《しんしつ》にあがり、寝《ね》そべって、日記をつけていました。日記の書き出しには、こんなことが書いてありました。
※[#二重かっこ開く]ぼくはあのひとが好きでたまらない。この頃のぼくはひとりでいるときでも、なんでも、あのひとと一緒《いっしょ》にいる気がしてならない。ぼくの呼吸も、ぼくの皮膚《ひふ》も、息づくのが、すでに、あのひとなしに考えられない。たえず、ぼくの血管のなかには、あのひとの血が流れているほど、いつも、あのひとはぼくの身近にいる。それでいて、ぼくはあのひとの指先にさえ触《さわ》ったことはないのだ。むろん触りたくはない。触るとおもっただけで、体中の血が、凍《こお》るほど、厭らしい。なぜだか、はっきり言えないが。
 どこが好きかときかれたら、ぼ
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