うしろから顔をだした、皺《しわ》と雀斑《そばかす》だらけの母に、「ほら、背広まで貰ったんだよ」と手を突《つ》ッこんで、出してみせようとしたが手触《てざわ》りもありません。「おやッ」といぶかしく、運んでくれた助手に訊《たず》ねてみようと、表に出てみると、もう自動車は、白い烟《けむ》りが、かすかなほど遥《はる》かの角を曲るところでした。「可笑《おか》しいなア」とぼやきつつ、ふたたび玄関に入って、気づかう母に、「なんでもない。あるよ、あるよ」といいながら、包みの底の底までひっくり返してみましたが、ブレザァコオトはあっても、背広の影《かげ》も形もありません。なにしろ明後日、出発のこととて、外出用のユニホォムである背広がなくなったらコオチャアや監督《かんとく》に合せる顔もない、金を出して作り直すにも日時がないとおもうと根が小心者のぼくのことである。もう、顔色まで変ったのでしょう。はや、キンキン声で、「お前はだらしがないからねエ」と叱《しか》りつける母には、「あア、合宿に忘れてきたんだ。もう一度帰ってくる。大丈夫《だいじょうぶ》だよ」といいおき、また通りに出ると車をとめ、合宿まで帰りました。
 艇
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