覗いてひっこんだのです。ぼくは我を忘れ駆けて行ってみました。すると、手摺に頬杖《ほおづえ》ついた、あなたが、一人で月を眺《なが》めていました。月は、横浜を発《た》ってから大きくなるばかりで、その夜はちょうど十六夜《いざよい》あたりでしたろうか。太平洋上の月の壮大《そうだい》さは、玉兎《ぎょくと》、銀波に映じ、といった古風な形容がぴったりする程《ほど》です。満々たる月、満々たる水といいましょうか。澄《す》みきった天心に、皎々《こうこう》たる銀盤《ぎんばん》が一つ、ぽかッと浮《うか》び、水波渺茫《すいはびょうぼう》と霞《かす》んでいる辺《あた》りから、すぐ眼の前までの一帯の海が、限りない縮緬皺《ちりめんじわ》をよせ、洋上一面に、金光が、ちろッちろッと走っているさまは、誠《まこと》に、もの凄《すさ》まじいばかりの景色でした。
ぼくは一瞬《いっしゅん》、度胆《どぎも》を抜《ぬ》かれましたが、こんな景色とて、これが、あの背広を失った晩に見たらどんなにつまらなく見えたでしょうか。いわばあなたとの最初の邂逅《かいこう》が、こんなにも、海を、月を、夜を、香《かぐ》わしくさせたとしか思われません。ぼく
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