、お下げにした黒髪《くろかみ》が、颯々《さつさつ》と、風になびき、折柄《おりから》の月光に、ひかっていました。勿論《もちろん》ぼくには、馴々《なれなれ》しく、傍《そば》によって、声をかける大胆《だいたん》さなどありません。只《ただ》、あなたの横にいた、柴山の肩《かた》を叩《たた》き、「なにを見てる」と尋《たず》ねました。それは、あなたに言った積りでした。柴山は、「海だよ」と答えてくれました。ぼくも船板《ふなばた》から、見下ろした。真したにはすこし風の強いため、舷側《げんそく》に砕《くだ》ける浪《なみ》が、まるで石鹸《シャボン》のように泡《あわ》だち、沸騰《ふっとう》して、飛んでいました。
 次の晩、ぼくが、二等船室から喫煙室《きつえんしつ》のほうに、階段を昇《のぼ》って行くと、上り口の右側の部屋から、溌剌《はつらつ》としたピアノの音が、流れてきます。“春が来た、春が来た、野にも来た”と弾《ひ》いているようなので、そっとその部屋を覗《のぞ》くと、あなたが、ピアノの前にちんまりと腰をかけ、その傍に、内田さんが立っていました。
 二人は、覗いているぼくに気づくと、顔を見合せ、花やかに、笑いだ
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