識な手紙を書こうとしていたのです。無論、書きかけただけで、実行はしませんでしたが、その前年の夏、鎌倉の海で、一寸《ちょっと》遊んだ、文化学院のお嬢さんに、ラブレタアを書いてやろうと思ったのです。返事は多分、向うに着いて貰えるだろうと思いましたが、その、円《つぶ》らな瞳《ひとみ》をした、お嬢さんには、すでに恋人《こいびと》があったかも知れないとおもうと、気恥かしくなって来て、止《や》めにしました。

     四

 やはり、あなたと初めてお逢《あ》いした晩のことは、はっきり憶《おぼ》えています。
 例の、食事中にはネクタイをきちんと結べ、フォオクをがちゃつかすな、スウプを飲むのに音を立てるな、頭髪《とうはつ》に手を触《ふ》れるな、といった食卓作法《テエブルマナア》も、まだ出発して一週間にならない、あの頃《ころ》はよく守られていました。
 そうした夕食後の一刻《ひととき》を、やはり新人《フレッシュマン》の為《ため》、仲間はずれになっている、KOのフォアァの補欠で、銀座ボオイの綽名《あだな》のある、村川と、一等船客専用のA甲板《かんぱん》を――Aデッキを練習以外には使うな、などという規則が
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