《ゆえ》とでも思ったのでしょう。照れ臭《くさ》くなったぼくは、折から来かかった円タクを呼びとめ、また、渋谷へと命じました。
 家に着いたぼくは、なにもいわず、ただ「ねかしてくれ」と頼んだそうですが、あまり顔色と眼付が変なのに、心配した母は、すぐ、叱りもせずに、床《とこ》をしいてくれました。翌朝、眼の覚めたときは、もう十時過ぎでしたろう。枕《まくら》もとの障子《しょうじ》一面に、赫々《あかあか》と陽がさしています。「ああ、気持よい」と手足をのばした途端《とたん》、襖《ふすま》ごしに、舵手《だしゅ》の清さんと、母の声がします。ぼくの胸は、直ぐ、一杯に塞《ふさ》がりました。
 もう寝たふりをして置こうと、夜着をかぶり、聴《き》きたくもない話なので、耳を塞いでいると、そのうち、また眠《ねむ》ってしまったようです。あの頃は、よく眠りました。練習休みの日なぞ、家に帰って、食べるだけ食べると、あとは、丸一日、眠ったものです。それ程、心身共に、疲れ果てていたのでしょう。ところが、やがて、「やア、坊主《ぼうず》、ねてるな」という兄の親しい笑い声と、同時に、夜着をひッぱがれました。二十歳にもなっているぼく
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