かって貰えるからとの話で、着物をお願いしました。
 がっかりすると言うより、ぼんやりして、海を見ていると、舵手《だしゅ》の清さんがやって来て、肩《かた》を叩《たた》きます。「どうしたんだい、坂本さん」微笑《ほほえ》んでいる清さんは、本当に、ぼくを気遣《きづか》ってくれるのでしょう。「いや、別に」とぼくは、だらしなく悄気《しょげ》た声を出しました。「ばかに、元気がないじゃないか」「ええ」とうなずいて、清さんの顔をみていると、このひとに、なにもかにも打明けたら、さっぱりするだろうという、気がふッと致《いた》しました。
 と、清さんは、急に真顔になって、「坂本さん。ちょッと話があるんだ。来てくれませんか」と先に立ち、上甲板《じょうかんぱん》に登って行きます。ああ、そのことかと、胸にギクリ来ましたが、結局、言われたほうが、楽になると思い、ついて行くと、ボオト・デッキから更に階段をあがり、船の頂上、プウルのある甲板にでました。方二間位のプウルには、青々と水が湛《たた》えられ、船の動揺《どうよう》にしたがって、揺《ゆ》れています。周囲にベンチが二つ、置かれてあるだけの狭《せま》い甲板です。「まア、掛《か》けましょう」といわれ、並《なら》んで腰《こし》を降ろしたまま、しばらく沈黙《ちんもく》が続きました。もう港が近いとみえ、鴎《かもめ》が遥《はる》か下の海上を飛んでいるのが見えます。
「少し、話し悪《にく》いことなんですが――」と前置きをして、清さんは切り出しました。「実は、あんたのことで、変な噂《うわさ》があるのを前からきいていましたが、坂本さんに限って、そんな莫迦《ばか》はしないと、ぼくはいつも打消していました。
 ところが、この頃、あんまり、森さんや、松山さん達が、心配するんでね、ぼくも、もう米国に着いたことだし、ここで、坂本さんにしっかりして貰えなきゃ困るんで、今日、改まって、訊《き》く訳ですが、一体、あの噂は、何処《どこ》ら辺までが本当なんです」
 ぼくも、こんな風に言われると、やはり、自分の精神的な、苦悩《くのう》は大切に蔵《しま》っておきたく、それとはあべこべに、あなたとの楽しかった遊びが、次から次へと、走馬燈《そうまとう》のように想《おも》い出され、清さんのそれからの御意見も、いつしか空吹く風と、きき流したくなりました。と、不意に、(意見せられて、さし俯向《うつむ》いて――)という、おけさの一節が、頭に浮《うか》びました。(泣いていながら主《ぬし》のこと)なにか訴《うった》えるものが欲しかった。自然《ネイチュア》よ! と眼をあげた刹那《せつな》、映じた風景は、むろん異国的ではありながら、その癖《くせ》、未生《みしょう》前とでもいいますか、どこかで一回は眺《なが》めたことがあるという感懐《かんかい》が、肉体を痺《しび》れさせるほど、強くおそいました。
 みよ、この時、髣髴《ほうふつ》と迫《せま》ってくるものは、水天青一色、からりと晴れ、さわやかに碧い、みじんも湿《しめ》りッ気を含《ふく》まぬ、おおらかな空気のなかに、真ッ白い国が浮びあがってくる。夢《ゆめ》のような美しさだ。夢がこれほど実感を伴《ともな》って、みえたことはないというのは、オリムピックを通じての感想ではありましたが、それをこの時ほど、如実《にょじつ》に感じたことはありません。
 白い国! 蜃気楼《ミュアジュ》もかくや、――など陳腐《ちんぷ》な形容ですが、事実、ぼくは蜃気楼《ミュアジュ》をみた想いでした。背後には、青空をくっきりと劃《かく》した、峰々《みねみね》の紫紺《しこん》の山肌《やまはだ》、手前には、油のようにとろりと静かな港の水、その間に、整然とたち並んだ、白いビルディング、ビルディング、ビルディング。それがいかにも、摩天楼《スカイスクレエパア》という名にふさわしく、空も山も、為《ため》にちいさくみえる豪華《ごうか》さです。その頭上に、七月の太陽が、カアッと一面に反射して、すべては絢爛《けんらん》と光り輝《かがや》き、明るさと眩《まぶ》しさに息づいているのです。ぼく達の大洋丸は、悠々《ゆうゆう》と、海を圧して、碇泊中《ていはくちゅう》の汽船、軍艦《ぐんかん》の間を縫《ぬ》い、白い鴎に守られつつ、進んで行きます。
 しかし、実のところ、ぼくは鴎も船も港も山も、なに一つ覚えてはおりません。只《ただ》、青い海に浮んだ白い大都市が、燦然《さんぜん》と、迫ってきた、あの感じが、いつもぼくに、ある永劫《えいごう》のものへの旅を誘います。金門湾、桑港《サンフランシスコ》! と、ぼくは、昔《むかし》なつかしい名を口にして、そのときも、今、聞かされている意見より、もっと、悠久なものについて考えていました。清さんも、同じ種類の感動に襲《おそ》われたのか、ぼくに、「ほら、もう桑港
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